Monday, November 09, 2009

すごいエレクトーン

Friday, November 06, 2009

ニューソングの日

明日、(11月7日)は、東京の八丁堀で、午後二時から、集会を行います。

詳しくはこちらから。

お近くの方は、どうぞご参加ください!!

爽やかに!

人は支配されても、支配してもならない。

個人の自由意志とは、誰であっても踏みにじってはいけないのだ。

ところが、企業であれ、宗教団体であれ、とにかく業績や教勢を伸ばそうとするときに、支配する構造が生まれる。そしてそれは常に恐怖を伴うものとなる。

逆に、本当に理想的な集団とは、「喜び」と「爽やかさ」が共存する空間を共有するものである。

夫婦、家族という最小単位の集団から始まり、国家、世界と進捗する集団形成に、日々の喜びと、生きる爽やかさが必要なのだ。それを失ったとき、そこにはあらゆる歪がもたらす苦悩が生まれる。

私がいつも自分に問うのは、神にあって爽やかに生きているか、そして、毎日を喜びの中で生きているかである。もちろん現実にはさまざまなチャレンジが存在する。しかし、それを超えて、私たちは喜びながら生きることが出来るのである。

これこそが、信仰生活の恵みといえるのだ。

Wednesday, November 04, 2009

今日はこんな感じ

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ごきげんでちゅ。

Monday, November 02, 2009

New Song Ministries

新しいミニストリーを立ち上げました!

祈りの中でニューソング・ミニストリーズという名前が与えられました。

まずは、毎週土曜日に東京で賛美集会を始めています。

お祈りください!ご参加ください!

日本の霊的復興のために、歌いつつ、戦います!

Friday, October 30, 2009

ツゥデーはこんなかんじだぜ!



はいはいの第一歩が始まっています。

Tuesday, October 27, 2009

きょうはこんなかんじでちゅ

 

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Monday, October 26, 2009

Windows Live Writerのテスト

この記事はWLWから書いています。

Water lilies

こういう写真ものせらるようです。

また、字も

change

できる。

Friday, October 23, 2009

天使の微笑み


主が御顔をあなたに照らし、あなたを恵まれますように。

主が御顔をあなたに向け、あなたに平安を与えられますように。
  (旧約聖書 民数記 6:25,26)


子供が朝目覚める。そしてその顔を覗き込むと、にっこりと笑う。天使の笑顔だ。それは、決して眠そうな顔では起きない。まず笑うのだ。

目が覚めると、父の顔が見える。それで笑う・・・。

なんとすばらしい起き方だろうか。

大人になると、自分の父の顔を見ることはない。起きてまず見えるのは天井だ。

しかし、そこに父なる神の顔を見るなら、私たちは微笑むのだろう。

幼い子供のごく自然の反応は、私たちと神との関係を教えてくれる。

今、父なる神、創造主なる神の御顔を見ることが出来るなら、私たちは、どんな人生の苦難の中にいても微笑むようになる。

天使の微笑みは、あなたの中にもあるのだ。

Wednesday, October 21, 2009

自分で調べよ

最近ちょっと沈黙していました。いろいろと調べものがあったりして、頭の中身を整理していました。

で、気が付いたことは、人間の思想とは気をつけないと洗脳されてしまうということですね。特にテレビなどを通して、受身の情報だけでは、気が付かないうちに、恐怖を持ったり、悲観的な考えになってしまうことがあります。

私も中学校時代の生物は大好きで(その先生の教え方も良かった)、その先生から教えられる進化論なども100%信じていましたが、今では、世界には進化論では説明できない逆転された地層やら、放射性同位元素測定のうそなどを、知ることが出来ますから、進化論を「鵜呑み」にするわけにはいきません。

このあたり、インターネットの発達で、さまざまな立場の情報を手元に引き寄せられることは幸いです。ただ、その取捨選択には、自分の確固たる基準がないと、ミイラ取りがミイラになってしまうわけですね。特に、英語の文献や動画が取り扱う知識は実に幅広いですので、英語が分かるだけでも世界観が一挙に広がります。これからは、英語、中国語、日本語が同じくらいの実力で使えることが必須となりますね。

このように、今の時代を生きるためには、他人に依存せず、自分で調べ、検証し、論理を組み立てることが必要です。そして、何事も「質問し、疑問を持ち、解答を見つけるまであきらめない」態度が必要でしょう。真理はどんな角度から照らされても、不動であり、移ろうことはありません。

もしも、盲目的な愛で結婚したら、後が大変です。だから、成功する愛は盲目的ではなく、実証的であるのです。

私が、なぜ過去25年間もイエス・キリストを神の御子として聖書から信じられるのかは、それは、すべて実証的であるからです。何か夢のごとくに神を信じているのではありません。これまでの人生の苦難のときも、喜びのときも、変わらぬ神の愛に触れ、そして、それを「体験」したゆえに、信仰は揺るがないのです。

一番無駄な人生の使い方は、何らかの形で「洗脳」されて生きてしまうことです。人生の大切な時間をテレビや無意味な情報に費やしてはなりません。もっと、自分で考え、神に創造され、愛されている自分の姿を発見することにしましょう。そうすれば、その喜びは、どんなときにも、私たちから離れることはないのです。

このところこんな感じ。

はじめてのおんぶでした。

秋深まり

最近はこんな感じ


古河総合公園にて。とても雰囲気の良い公園です。

Monday, October 12, 2009

THE 拭き掃除

家の掃除は拭き掃除に限る!雑巾さん、ありがとう!

昔の日本の家屋は、畳の部屋で、毎朝母親が、箒をかけ、雑巾で拭いていた(に違いない)。

今の住宅は、カーペットやフローリングであるのだが、やはり埃が部屋の隅や、コンセント、電気器具などに堆積する。昨晩は、夜遅く、とつぜん妻が掃除や片づけを始めたものだから、わたしもつられて少し雑巾がけなどをしました。そして、今日は子供のベッドを分解して収納しました。(あまり使っていなかったので)

私のよく読むIT系のコラムニストが、だいぶ前の記事に書いていたのだが、「掃除は、自分の机の上のまず小さな面積からはじめなければならないと。」つまり、年末の大掃除だけでは駄目なのだ。もし、机をいつも綺麗にしていたら、その周りのいすも綺麗になるし、そうすれば、その「綺麗な範囲」が広がる。そして、小掃除を常にして、中掃除をたまにするなら、もはや大掃除は必要なくなるのだ。

ということで、大変気が早いですが、年末の大掃除の時に楽をしたければ、まずアナタ、そうです、この拙文を読んでくださっているアナタの目の前の机を掃除するのです!ほら、あるでしょ、埃がたまっている場所が!(おせっかいですいません。)

前にも書きましたが、トイレの綺麗な家(アパート、マンション、会社、レストラン)は、繁盛します!

というのは、心の反映が、目の前の風景なのです。心が定まっている人は、綺麗な空間に生きているのです。

どうぞ、ご自愛ください。

連休中の雑感から

連休中の北関東はおだやかな天候であった。すこし秋めいた、というか完全に秋の風が吹いてきている。この世界を見渡すと、いまだに紛争が絶えることがなく、あらゆる危機が連続している。先のパキスタン軍の出来事などを見ると、核兵器の管理に大きな危惧を持つのは私だけではあるまい。

核兵器が開発されてもう半世紀以上も経つ。日本は唯一の被爆国としての「体験を語れる」国である。つまり、日本は究極の戦争の恐ろしさを体験した国家であり、それは戦後生まれの私のDNAにも刻み付けられていると感じている。

アメリカのオバマ大統領が「核兵器の削減」などを謳っているようだが、現実は、もう取り返しの付かないところまで世界は来てしまっている。ノーベル平和賞が、いくらあってもこの世界は平和にはならない。だいたい、平和でないからこんな賞が存在しているのである。それは、個人の平和も同じである。

つまり、世界は、そして私たちは、平和の希求という点では、もうすでに限界点を突破してしまっているのだ。だから、本物の平和は、小手先の、人間的なものでは決してやってこない。もちろん、あらゆる宗教を極めても、人格を極めてもそれは無理なのだ。

口では平和を教える人格者も、本当に平和を生きているのかは疑問である。それは、自分の心理を見てみればよく分かることである。だれもが、どこかしら偽善的な生き方をしているのだから!(例外なし!)

ゆえに、私たちは、平和を人間社会というシステムに求めるのではなく、神ご自身に求めるのだ。

だから、まず、神を定義しなければならない。それは、巷にあふれている霊能者のことでもなければ、人類の英知である科学でもなければ、さまざまな宗教的修行によるものでもない。また、光とか、エネルギーといった抽象概念でもないし、夢や幻などの心理的現象でもない。

では何なのだ??

これを、求め始めることが、真の神にいたる道である。

今日は、ここで筆を止めることにしよう。

2009年の秋、危機が深まる世界で、あなたは、本当の神を知っているでしょうか?また、知られているでしょうか?本当の平和を持ち、愛を知り、自分の失敗を受け入れ、周りの人を赦すことができているでしょうか??

Friday, October 09, 2009

孔雀夫妻

Thursday, October 08, 2009

今日はこんな感じ



頭がまだ大きいのですが、首がすわりました。(髪の毛がうすいですが、服が青いですが、女の子です。)

Wednesday, October 07, 2009

自分の携帯に仕事のメールを転送してはならない。

フランスのある会社で自殺が急増しているという報道がある。その原因の一つが、24時間会社のメールに束縛されているということもあるらしい。

つまり、自分の携帯に会社のメールが転送される設定にすると、通勤途中も、自宅にいても業務連絡が途切れることがない。これは大企業の社員に多い事例なのだ。

実際、私もある人材研修企画会社の営業を担当していた時、その状態だった。ある時は、家で風邪で高熱を出して寝込んでいる時も、枕もとの携帯には、メールが届いていたものだ。

今考えると愚かなことであるのだが、私は責任感と営業のチャンスを逃したくないという気持であった。

これは、メール+携帯という技術革新が、自宅にいても仕事を可能にしているのだが、これではストレスが増えるわけだ。しかし、これで2年間に20人以上も自殺するという、フランスの大会社の悲劇も生みだす。

今の私の携帯は仕事のメールを受け取らない設定にしてある。今の私は、携帯にさほど大きな意味を感じていない。昔は、携帯がなくても、人と待ち合わせしたし、それで社会は動いていたのだ。まして、電子メールという、ぶしつけな通信手段もなかった。

メールの文面は、脚色しないと本当に人を傷つけやすいものだ。なぜなら、そこには「筆跡」という、温かみがないからである。そのうち、技術革新で、その人固有の筆跡で、メールが送れるなら、温かみという問題は、だいぶ解消すると思えると思える。どなたかそんなシステムを開発してください。

ポイントは、仕事が終わったら、さっさと自分の時間に切り替えることだ。仕事の故に、家族とのコミュニケーションを失うなら、それは、将来大きなしっぺ返しを受けることになる。家庭の小さな幸福は、会社のでの出世に勝る価値があるのだ。いや、むしろ健全な家庭を持つことこそ、本当の出世物語である。

今の社会に欠けているのは、コミュニケーションの温かさであろう。じっさいこれを、インターネットやメールで表現するのは難しい。やはり、会って、語り合うという伝達手段に私たちは立ち返るべきなのだろう。

Monday, October 05, 2009

台風18号接近中

台風18号が近づいている。気圧が低いのが特徴だが、このままだと、日本列島に上陸する可能性もある。もう10月だが、遅い台風である。この二三日は警戒を怠らないようにということだろう。


気象庁によると、18号の中心気圧は910ヘクトパスカル、中心付近の最大風速は55メートル。5日午後現在、沖ノ鳥島近海にあり、時速25キロで 西北西に進んでいる。大東島地方は6日夜から7日にかけて風速25メートル以上の暴風域に入り、猛烈なしけとなる見込みで、沖縄本島でも大しけが予想され る。

18号は8日には強い勢力を保ったまま西日本から東日本に接近するとみられ、今年初めて上陸する可能性もある。(朝日新聞より)



今年の後半はどのような締めくくりとなるのだろうか?株価も低迷しているし、ものすごい円高でもある。確かに輸入品は安くなるし、海外旅行はお得なのだが、社会全体に高揚感がないのはなぜだろうか。

そんな中、私は、新たなるミニストりーの可能性を見いだしつつある。それは、日本人の感性にかかわることだが、これから実験的に、かつ実際的に、主イエスの恵みを伝える方法を試して見るつもりだ。

人生の主題は、主イエスである。しかし、それが伝わらなければ、この人生に意味はない。自己の追求が人生の目的ではなく、私たちを創ってくださった方を目標とするとき、人生は、無限の可能性を秘めている。

と、こんなことを最近考えています。

ということで、今回の台風の折には、外出などお気をつけください。また、危ないところが身の回りにないかよく点検してみてください。

それでは!

Friday, October 02, 2009

今日はこんな感じ

Monday, September 28, 2009

GMail Drive Shell Extension

ご存知の方も多いと思いますが、Google Gmailを利用した、ファイルのストレージがあります。

http://www.softpedia.com/progDownload/GMail-Drive-shell-extension-Download-15944.html

これを使うと、仮想ドライブにGMAILが現れます。そこにファイルを置けるわけです。

外出先にはUSBのメモリーを持ち歩くこともありますが、忘れることもあります。また、データが壊れている可能性もある。そんな時、大事なファイルは、GMAILにアップしておけば、出先のPCでも取り出せるわけです。

本当に大事なファイルはそんなにはないのですから、GMAILをこのように使うのも有効でしょう。

トイレを綺麗にする

先日ラジオを聴いていたら、ある人が、「わたしが心がけているのは、トイレの掃除です。トイレの掃除を完璧にすると、経済的にも豊かになるのです。」という趣旨のことを言っていた。

理由は、「人の嫌がる、汚いところの掃除に手を抜かないという人は、成功するからです。」ということである。これは、確かにそうである。

一軒の家を人に例えるなら、トイレが汚いということは、自分の心の暗部に、目を向けないということになる。

トイレの汚いレストランは、衛生面で必ず問題があるし、その経営者が「手抜き」であることの証明である。私も会社や、レストラン、そして教会でまず見るのは、トイレが綺麗であるかということである。そして、大体のところ、トイレの綺麗さと、その内容は合致しているものだ。

最近、私が学んでいることは、聖書が教える原則とは、西洋医学的な「対処療法」ではないということだ。つまり、どこかが痛い、ゆえに、痛みを抑える薬を処方するという、やり方は、一つの問題は治療するが、その人の根本的な「生き方」は直さない。だから、時間が経てばまた同じ問題が、違う場所に出てくる。

一方、東洋医学的なアプローチでは、どこかが痛い、ゆえに、体の根本的な体質を変化させる薬草を処方する。こんな感じである。こうするなら、時間はかかっても、その人の根本的な体質が変化して、病気に強くなる。

もちろん、骨折したりしたら、添え木を当てるという対処療法しかないわけで、ケースバイケースなのだが、体質そのものを変えてしまうという治療に勝るものはない。

聖書の言葉は、私たちの生きる力を根本的に変えてくれるものである。自殺願望まで持ってしまった欝的な人が、大胆に人生を切り開く人間に変わることもできるのだ。それは、クスリで何かを抑えるというものではなく、生きる力そのものが変化するということなのだ。

さて、トイレの話から、東洋医学になったが、結論は、自分の命に、暗部が残らないように、すべてを白日の下に出して、掃除をしてしまうということである。

その一歩は、お宅のトイレ掃除かもしれない。(ちなみに、私も二つあるトイレを掃除しました!!)

Sunday, September 27, 2009

今日はこんなかんじですねん

Friday, September 25, 2009

今日はこげな感じ

Tuesday, September 22, 2009

夢がある

「なぜキリスト教は日本に根付かないのか?」これは、遠藤周作の「沈黙」という作品のテーマになっているそうだが、確かにこの設問は的を得た問いかけである。

わたしは、現在もクリスチャンであり、アメリカのプロテスタント教会に通うことから、信仰生活が始まっている。それは、今から25年も前の話であるのだが、それ以降、人生に波風があっても、神への信仰を失うことはなかった。しかし、日本という社会を見ると、状況は25年前とさほど変わっていない。今も、神道を基礎として、日本中が鎮守の森によって守られているような思想があり、葬式といえば、ほぼ100%が仏式であろう。結婚式やクリスマスに教会が顔を出すことがあっても、それはほんの一時的なことであり、恒久的なものは、すべて日本的なものになっている。つまり、キリスト教はちっとも日本に根付いていないのだ。私たちはいったい過去25年間何をしてきたのか?と問いたくなるわけである。

最近、戦国時代の武将たちのことを調べたりしていると、その時代に多くのキリシタン大名がいたことがわかる。当時は、宣教師の教えに帰依する人々が多かったのだ。また、細川ガラシア夫人のように、関が原の戦いを前にして果てた信仰の女性もいる。戦国時代から徳川時代は、キリシタンが極めて 凄惨に殺されて行った時代であり、基督教は全面的な禁教となった。

そのような背景の中で、日本の中世、近代史は、キリストを信じる者たちにとっては、極めて生きにくい時代であり、日本の社会で、基督教が根付いたことは、ただの一度もない。ゆえに、私のように、牧師という職業や賛美を愛するなどということは、一般的な日本人にとっては、「???」というものでしかないだろう。しかし、私には夢がある。

そう、I have dream.である。

それは、日本人が、神の前で本当に自由になっている姿を見ることである。

日本が、極めて閉鎖的で、束縛的な社会であることは、皆が知っていることである。だから、酒を飲み、アルコールの力でその毎日のストレスを晴らさなければならないと多くが考えている。

しかし、アルコールによる現実逃避は一時のものであり、残るのは二日酔いだけである。アルコールも、ひどく飲用するなれば、肝臓を壊し、家庭を崩壊させる。

日本がイエス・キリストという神の御子を知るまでは、本当の自由は来ないと私は信じている。徳川幕府以来の、日本という統一国家も、決して人々を幸せにすることができなかった。宇宙の創造者である神だけが、私たちの本当の幸せの源である。しかし、このような知識は、学校教育でも教えられないし、職場でも教えられない。だから、日本の社会には常に閉塞感が伴うのだ。

これからの日本を救うのは、政権交代でもないし、科学の発展でも、資本主義でもない。過去何百年間も、この日本が束縛されてきた「霊的束縛」を解く鍵は、聖書の中にある。

20世紀から、人類はこの聖書をようやく、手元に書物として持つことが出来るようになっている。それも、教会の教職者だけではなく、一般民衆が、聖書の言葉で生きることが可能なのだ。

日本のように識字率が高く、教育程度の高い国は、聖書にもっとも近づくことができる国民である。

私の夢は、日本の家族が、聖書の倫理基準により教育されてゆくことだ。そこに、喜びがあり、平安があり、どんな苦難にも耐えることが出来る信仰が備えられるのだ。

人は、生き、また死んでゆく。その中で。刹那的に、そして混乱の哲学の中で生きてはならない。多くの哲学者や文筆家が自殺するのはなぜか?そこには、本当の希望がないからである。

日本の希望は、聖書の言葉による、圧倒的なリバイバル(霊的復興)である。

Monday, September 21, 2009

世代交代

自民党は世代交代だそうだ。河野氏が、何か悲壮な覚悟で総裁選を遊説していますね。この結果には少し興味ある次第だ。

私の周りで面白いのは、なぜか昭和34年生まれの人が、集まっていることである。これは、本当に偶然なのだが、話してみると、皆昭和34年生まれ。話題が合うことこの上ない。

子供のときに、ブルーライトヨコハマを聞き、札幌オリンピックで笠屋を応援し、そして、青春時代は、サザンが出てきたときでもあり、洋楽は中学生のころからビートルズであった。(もう解散していたが)

そう、世代交代である。世の社長連中もこの年代となって来ている。

私たちは、団塊後の世代であり、学園紛争の吹き荒れた嵐の後で、高校などに入学している。いわゆる虚無の中で育った世代だ。だからこそ、確固たる真理を求める飢え乾きがあるとも言える。

私も、音楽に没頭しながら、何が人生の真理であるのかを捜し求め、結局見つけたのは、主イエスの十字架であった。

まだまだ、日本では真理を求め彷徨う魂が1億人以上いる。どうか、彼らが、神への信仰という、真理を見出すことができるようにと祈る。

私は、世代交代により、日本にあたらしい風が吹くことも願っている。

関が原の戦い

昨日の天地人は、関が原の合戦のストーリーであった。

関が原では、小早川秀秋の裏切りと毛利秀元の軍が動かぬという二点において、西軍は敗北した。若い石田三成は、秀吉あっての権力者であったのだが、秀吉の死後は、結局諸大名をまとめることができず、関が原で大敗し、背走するなかで捕縛され、京都で斬首刑となった。

一方家康は小山評定で関東から西に引き返した判断が正しく、北上して会津征伐で兵力を消耗しなかったことが、ある意味最大の勝因であった。もし、三成が、家康らが会津に到着するまで、西軍の動きを抑えて1週間ほど待つことが出来たら、関が原の戦いは起きなかったし、その後の日本の運命は変わっていたであろう。

歴史はこのように、ある一点の判断から、まったく逆の結論に導かれる。ある人物の、一日の使い方の違いが、社会の姿を決めるということも同じようにあるだろう。

人間は、未然のことは何ら理解することができないから、自分の行動が将来どのようなことをもたらすのかを知ることが出来ない。ゆえに、ある軽率な行動や決断から、奈落の底に落ちることもあれば、すばらしい決断で、天にも上るような体験に導かれることもある。

ゆえに、わたしたちの一日一日の行動と思考の内容が問われている。私もこれまでの人生を振り返るなら、軽率な決断で、後々大きく苦しんだこともある。また、あるときは、信仰で大胆に行動した結果、祝福を得たこともある。

おぼろげにわかってきたことは、神の御心の道には、たとえようもない平安と喜びが伴うということだ。そこには、恐れがなく、不安もない。しかし、肉の決断をするときには、恐れや怒り、その他、ストレスに通じるあらゆる思いがある。また、それは人を貶める決断でもないし、自らの義を立てる決断でもない。もっと高位な内容が伴うのが、御こころの決断である。

私たちの人生では、いつも決断を問われるが、それを本当に精査する必要がある。若いときは、就職や結婚といった大きな決断をしなければならないのだが、それを勢いだけで決めてはならない。また、年をとって経験を積んだとしても、信仰の一歩を踏み出す勇気を締め出してはならない。

主を怖れるときに、私たちは正しい決断に導かれ、そして、平安な道を歩むことができる。

私たちの主は、創造主なる神であるのだから、この人生と世界の設計者なる神にすべてをゆだねるとき、自分と取り巻く世界は、神の愛によって変化してゆくことになる。

しかるに、今日の決断を、神にゆだねよう。そこに平安がある。そして祝福がある。

Sunday, September 20, 2009

視点を変えるなら

今日は良い天気。昨日はものすごく綺麗な夕焼けであったので、今日の空はまさに日本晴れである。

宇宙の中に、地球ほど美しい星はないだろうし、この地球にこそ、神の計画があるわけだが、人間は「罪」のゆえに、その神の創造の計画を無視して、徒党を組み、自分勝手に生きている。

宇宙ステーションから地球を見るなら、国境線も見えない。にもかかわらず、人間は、人種間の争い、地政学上の争いに満ちている。

人は、どうやったらもっと「鳥瞰的」な視点を持つことが出来るのだろうか。人間は、歩き、走ることが出来るが、自ら飛ぶことはできない。ゆえに、どうしても、平面的な考え方をするものだ。

神への信仰とは、この平面的な視点を、創造主からの視点へと変化させるものだ。十字架が横と縦の木によって作られたように、人間には、平面的な視点と、垂直的な視点の両方が必要なのだ。

身近な人への愛が大事であると同時に、もっと大局的な愛も必要である。国家意識も必要だが、全地球レベルで物事を理解することも必要だ。自分と家族の祝福も必要だが、貧しい人々へのケアも必要だ。

以下は、私の懇意にしているインド人の牧師から送られてきた写真である。


彼らは野外で、貧しい人々に、聖書の言葉を伝えている。これは2009年の今の写真である。昔の風景ではないのだ。

このように、飽食の日本では、気が付くことができないことも多い。

私たちの視点のパラダイムシフトが起きることが必要だろう。

Saturday, September 19, 2009

シルバーウイーク

何か知らない間に、九月に連休があるようになりました。今日から5日間の休暇のある方も多いでしょう。私は特に大きな予定はありませんが、近くの公園を散歩したりしてみたいと思っています。今日の天気は曇りですが、気候はすごしやすいですね。

ということで、皆様もよい連休をお過ごしください。

Friday, September 18, 2009

最近はこんな感じ

今日はこんな感じ



うつぶせが少し出来ます。

怒りについて考える

人の怒りは、神の義を実現するものではありません。(新約聖書、ヤコブ1:21)

ずいぶんと昔であるが、あるときこの御言葉が深く心に響いたときがあった。それ以来、怒りをもつことの無意味さを知り、ずいぶんと性格が変えられた。

かつての私は短気であり、どうでも良いような細かいことにイラついていたことも多かった。そして、その怒りを鎮めるために、乱暴にドアを閉め、家を飛び出し、車に飛び乗り、乱暴な運転で思いっきりドライブして、憂さを晴らしたりしたものだった。幸い、事故も起こさず、人に暴力を振るうようなことはなかったのだが、携帯を床に叩きつけて壊したこともあった。

私は25歳のときにクリスチャンになったので、これらの話はそれ以降のことである。ご存知のように、すべてのクリスチャンが、成熟しているわけではありません。(牧師も例外ではない!)

未熟で若かった私の心は、魂(知性、感情、意思、記憶)の部分が、神の愛によって漸進的に救われるというプロセスの中で、まだまだ満たされていない、幼い部分が顔を出していたのでした。

そんなときに、上記の御言葉が示されたわけなのだが、どんなに自分が正しいと思って、怒ってみても、「神の義」とは無縁であり、決してそれに到達しないということが、神の霊によって教えられ、私の深い部分にそれが書き付けられたのだ。

旧約聖書の箴言などを読むと、「短気なものと交わるな」とも書いてあるのだが、まさに、人の怒りというものは、本人にも周りにも極めて害のあるものでしかない。

で、今の私は怒りがこみ上げて来るときにどう対処するのか?

もちろん、この世の不合理、不正に対して私たちは声を上げることが出来る。何でも受け入れるべきということではない。しかし、そこに怒りという成分を含めてはならないということだ。そして、怒りという感情を押さえるだけの、落ち着いた自分を築き上げることが必要だ。

私は、怒りの感情が出てくるときには、歌うことにしている。というより、最近は、何か反射的に歌が出てくるのだ。もちろんこれは、普段歌っている賛美のフレーズなどである。

「感謝、感謝、感謝、感謝、感謝せよ、主に」という感じで歌うのである。

そうすると、心はだんだんと冷静になり、状況分析が出来るようになって来る。その分析とは、「なぜ、あの人はあのようなことを言うのだろうか?それをもたらした、その人の置かれた環境とは何か?」というものを考えるようになる。そして、「もし私がその人の立場であるなら、同じように行動し、発言しただろうか?」とも考える。

そうこうしているうちに、神は私の心に平安を置いてくださり、その人のためと、自分のために祈り、安眠することが出来るのだ。

もちろん、今の私も怒りという感情がわくことはある。それを消すことはおそらく出来ないだろう。だが、それを治めるということを学ぶ必要があるのだ。

人はストレスを晴らすために、アルコール、タバコ、覚せい剤、パチンコなどに依存するようになる。それらの物質的刺激により、脳内のドーパミンを発生させ、一時の快楽によって苦しみを忘れようとするわけだ。ある人の研究によると、人の悪口を言うことも、ストレスを解消する手段の一つらしい。つまり、悪口を言うという「高揚感」のなかで、脳内麻薬が出ているらしいのだ。

だから、悪口の塊のような人は、自己のストレスを発散させなければならないという手段において、アルコールに溺れる代わりに、暴言を言いまくっているということもあるのだろう。それは、実にかわいそうな現実である。

このように、怒りの原因は、実は自己にあるストレスにある。満たされない思いにより、自分のストレス度が高いとき、私たちは些細なことに目くじらを立て、やがてそれがあらゆる言語的暴力につながってゆく。

私も最近まで香港で暮らしていたのだが、教会の寮生活の住宅環境などで、他国に暮らすというストレスは大きなものだった。そのストレスのゆえに、ささいなことでイラつく自分があった。そして、そんなときは、他者への思いやりなどする余裕は生まれない。

これは一例だが、まずストレスを減らさなければ、人格なり品格は向上しないのだ。

となると、順番はこうである。

1.現状の不満、満たされない思いが増える
2.結果として、ストレスが増える
3.それを解消しようとして手段を探す
4.その結果、物質的な依存か、感情的な怒りとなって爆発する
5・人間関係が破綻する。自暴自棄になる。

そして、その解決は

1・すべての現状に、神の恵みを知り、神への感謝の心を持つ。自発的に賛美する。
2・結果として、ストレスはなくなる。
3・ストレスを解消する手段は探さない。
4.その結果、感情は穏やかになり、寛容になる。
5・人間関係が回復する。他者を祝福し思いやることができる。

とにもかくにも、罪びとである私たちには、神の恩寵が必要なのだ。そして、その道を教えてくれるのは、あの十字架のイエス・キリストだけなのだ。

感謝主!

Thursday, September 17, 2009

Fire Revival











Fire Revival
(Song and Word by David Kazama 2009)

FIRE REVIVAL 日本の上に
聖霊の奇跡を 日本の上に

私たちの 肉の思いを捨て
神の御こころだけを 求めよ!

主は大いなるその日を 備えている
私たちは叫ぶよ 主の御名を
イエス!
大いなる主
われらの王
大いなる主

一番偉いのはだれ?

日本の新総理大臣が決まった。鳩山氏である。そして内閣のメンバーが決まり、記者会見が行われた。総理こそ、国家運営の大責任者である。

昨日は東京でFRJという賛美集会があり、後片付けをして、仲間たちといっしょにお茶を飲んでから、新宿を出たのが夜の11時半すぎ、途中の道路が工事中で道に迷い、栃木の家に着いたのは午前1時半過ぎであった。帰り道、眠気覚ましにNHKのラジオで鳩山新政権の閣僚の記者会見が行われていた。それを聞きながら、帰途についた。記者も大臣もこんな夜中に仕事は大変である。次の日の朝から記者会見をすれば良いと思うのだが、日本人は結構こういうお祭り騒ぎが好きなのである。(役人たちの帰りのタクシー代は税金であろう。無駄遣いもはなはだしいと思いませんか?)

さて、このような国家権力の中枢部に身を置くという気持ちは、私などには全然想像もつかないのだが、昨日まで野党の議員であった人が、いきなり大臣となったら、浮き足立つ人も多いであろう。記者会見を聞いていても、大臣とはやはり新人議員などはとても勤まらない職責であることは良くわかる。ちょっとした一言が、明日の新聞をにぎわすのだから、軽軽しいことは言えなくなる。

ある閣僚は、今回の政権交代は「例えるならば革命である」と言っていたのだが、これは選挙で選ばれておきながら、革命であるという発想はまったく迷惑千番である。革命とは、体制に対して、あるグループによる暴力的クーデーターが成功したときに使う言葉ではないのか?有権者は、単にある議員や政党に一時的な「付託」をしたのであって、決して革命を起こそうとしているのではない。そのあたり、民主党が数の論理で舞い上がっている議員を抱えていることが垣間見えた次第である。

そして、考えることは、人間にある「だれが一番偉いのか?」ということを考える、権力志向についてである。(特に男性はこればかり考えている。)

聖書は、「仕えるものがもっとも偉い」と教えている。しかし、人間はいつも地位や名誉で偉くなれると錯覚している。(特に男性はこれに敏感である)

かくいうイエスの弟子たちも、日ごろから「一番偉いのは誰?」と考え、他人の足をひっぱたり、妬んだりしていたのである。2000年後の私たちも実はそれとちっとも変わっていないのだ。

私が25年前ほどに、アメリカの聖書学校に入学したその初めての授業で、校長でもある牧師が生徒たちにこう言ったものだ。

「この中で、仕えるという心のないものは、さっさと帰りたまえ。ここはあなたのいる場所ではない。」

わたしは、せっかく苦労して聖書学校に入学したのに、いきなりそんなことを言われたのでびっくりしたのだが、今ではその言葉の意味が良くわかる。

真の指導者とは、「もっとも良く仕える者」のことである。いわば、「仕え人頭」が指導者なのである。

私たちが、誰が見ていようと、また評価されようとされまいと、ひたすら主と人に仕えているなら、神は必要なときに、その人を上に立たせてくださるのである。神に立てられたそのような指導者は、神に立てられているので、波風があっても揺らぐことがない。

大切なのは、最後まで仕える心を失わないことだ。

さて、新政権、民主党はどうなるのか?公務員だけが公僕なのではない。政治家こそ、期間契約社員の公僕である。今回選ばれた、議員たちが、その権力の座で、高ぶらず、舞い上がらないことを願うばかりである。

今日もこんな感じ

赤ちゃんは動きが早くて、笑顔を撮るのがなかなかむずかしいのですが・・・。
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Wednesday, September 16, 2009

今日はこんな感じ

コンニチハ・・にんはお

今日はこんな感じ



初めてのパラシュート降下訓練・・・いやベビーカー初搭乗でした。

Tuesday, September 15, 2009

Tears in Heaven



クラプトンの名曲ですが、この子の声は澄んでいて、洗われるような声ですね。ギターも上手。

VAIO その後

今朝から引き続きVAIOの調整をしまして、ようやく終わったところです。我が家は一階に光回線の端末があり、二階は無線ランで飛ばしていますが、インターネットの実効スピードは数メガ程度です。それでも、実用には問題ないのでパワーアップは考えていません。昨晩は、その設定に手間取りましたが、今朝ほど無事コネクトできました。

そして、オフィイスソフトを入れて、その他の常用ソフトを仕込むと・・・結構時間がかかるものですね。

動画などの編集をしなければ、この10年近く前のマシンでも使い物になるわけです。そうなると、今のPCの利点とは何ぞやという気がしますが、それでも機材の陳腐化は進むのですね。

ということで、仕事を続けることにします。私は多少SONY信者のところがあるので、VAIOを手に入れて喜んでいるわけです。

それではまた。

SONY VAIO LX-70

また古いガラクタを買ったのですが、今回は久しぶりにPCです。

VAIOのLX-70は、ずいぶん昔のPCですが、ちゃんと液晶画面で、作りは丁寧です。当時は28万円もした商品ですが、今では、その30分の一ぐらいの市場価格です。近所のリサイクルショップで安く売られていたので、インターネット閲覧および、ワードでの文書用に買いました。

ところが、リカバリーCDが付属されていなかったので、最初は慌てましたが、ドライバーをあちこち探し、http://vcl.vaio.sony.co.jp/products/win2000/products/pcv_lx81bp.htmlというところで、解決しました。

久しぶりに、WINDOWS2000というOSに戻りましたが、インターネット見るぐらいですと、まだまだ現役で使えるのですね。

古い自作のPCからメモリーを移植したりして、それなりに時間がかかりましたが、実用的なPCが手に入りました。先日、ノートパソコンが壊れてしまったので、しばらくはこれで、文書製作ということになりそうです。

ということで、備忘録でした。

Monday, September 14, 2009

THE 小山評定

我が家の近くには、東京から宇都宮までつながる国道四号線が走っている。昔、江戸と日光を結んだ、日光街道である。そして車で30分ほど走ると小山である。今は、東北新幹線の駅がある大きな町である。

さて、昨晩のNHKの天地人では、徳川家康が、石田光成らから「逆賊」と決め付けられたことにより、急ぎ西方に帰還するという、小山評定が描かれていたが、その場所がまさに現在の小山である。

天下分け目の戦いである関が原の戦いの直前に、上杉家会津征伐を行おうとしていた家康だが、小山において、石田光成らの動き見て、このとき迅速に西方に戻ったゆえに、関が原で勝利することになったのである。

天地人では、小山にいる家康を、直江兼続が討つべしと進言するが、上杉景勝はこれを「後ろから討つとは、上杉の義に反する」として退ける。このことが決定的になり、石田光成らの反家康勢力は、兵力を完全に温存できた家康軍とその同盟軍に敗れることになる。

天地人の描写が果たして史実に忠実かどうかは分からないが、上杉家は徳川側に付くことなく、関が原の戦いを経て減封されることになったのは事実である。

当時、豊臣家から徳川家への権力移行のために、日本中の大名が振り回され、結果として、徳川幕府がスタートすることになったのだが、豊臣家も元来一枚岩でなかったゆえに、秀吉の死後、家康に天下を奪われることになってしまった。秀吉という、スーパーカリスマ大名の下ではおとなしかった家康であるが、彼の死後は、跡目を得ることに全精力を使ったわけである。

このように、権力の移行期には、大きな危機が生まれるものだが、現在の日本がまさに、麻生政権から鳩山政権への移行期となっている。これは、自民党から民主党への移行でもあり、戦後初めての大掛かりな政権交代劇である。裏にいる民主党の小沢氏は、もともと自民党であったわけだが、まわりまわって、時代の大役を担うことになった。彼の持つ戦略にこそ、今後の日本の方向性がある。

これから、鳩山政権がアメリカや中国からの圧力をどのように受け流しながら、どのくらい日本の独自路線を打ち出せるかに注目である。この意味、明治維新に匹敵するぐらい、今回の歴史的転換は大きな意味を持っているだろう。

気がかりは、民主党が各政党からの寄り合い所帯で、一枚岩ではないことである。そんな集団で、外交を切り盛りし、内政を充実できるのだろうか?はなはだ不安である。

本当に国のことを思い、そして外交までをこなす人材はそうざらにいるものではない。一時代に一人ぐらいしかその役目を果たすことは出来ないのだ。

これは、小さなレベルの集団でも同じである。私利私欲、自らの主張を述べるだけの小兵では、何も達成することは出来ない。せいぜい、付和雷同的に、西方についたり、東方につくだけの話である。その点、上杉景勝は、家康を後ろから切ることもせず、関が原の敗北の責任をすべて身に受け、そして、その後も侍として良き、良政を敷いたという史実からみて、大した人物であった。仮に、小山評定の時点で、上杉家が家康を討ち取ったとしても、その後はどうであろうか?結局戦国の日本は混乱を極めたのであろう。

上杉景勝がそこまで読み込んでいた人物であるかは分からないが、彼の「義の決心」のゆえに、日本は徳川幕府時代という統一の時代を迎えたのであった。

明治維新以降の日本の発展も、徳川時代の統一日本でのインフラ整備、教育の整備などがなされていたからこそ実現したのだった。確かに鎖国などで、文明の発展は遅れたのだが、日本の文化はさらに細密化され結実されていた。そして、欧米社会の横暴たる植民地時代に国を閉ざし、時至って開国できたことは、歴史的に見るならば、日本に利した時代背景であった。

そして、第二次世界大戦と、戦後の経済発展を経た日本の真価が今問われている。

つまり、時代は、小山評定の時代であるのでは?

つまり、真の「義」を求めることが、時代を回転させるのでは?と考える次第である。

つまり、今の日本に、自己の保身に走らず、本当の正義だけを求める人材がどれだけいるのかと、思う次第である。

Friday, September 11, 2009

よかった。




香港で買ったノートパソコンが故障!電源が入らない。基盤の故障に違いない。うわあ、データをバックアップしていなかった・・・。

ということで、ハードディスクを取り出して、アダプターに組み込んで見たらデータは読めました。ということで、ハードディスクは壊れていなかったので、無事データを救出できました。

これが出来なかったら、大損害でした。ということで、皆様も、バックアップは忘れずに。バックアップのそれまたバックアップもお忘れなく。

機械(PC)は突然壊れます。ご用心あれ!

CHANGE! YES, WE CAN! (FOR MYSELF)

あの小浜市いやオバマ氏のキャッチフレーズ以来、変化すること、CHANGEが謳われるようになった。

そして、YES,WE CAN!である。

私は、これを政治に当てはめるのではなく、個人に当てはめるべきであると考える。つまり、古い自分を変えて、新しい自分となる。そのために、何が出来るかと考える。このような方向性が正しいと思う。

人は、問題を抱えたとき、自分以外の環境が悪いのだと結論付ける。たとえば、日本の政治が悪いから私は苦労するのだと。しかし、それは正しい分析ではない。自分の困難とは、自分に原因があるのだ。そこに目を向けて「CHANGE」しなければならない。また、本当の人間関係とは、建設的な変化をもたらすための関係である。それは、夫婦でも、親子でも、友人でも同じである。

私もかつて、日本を嫌い、何でも西欧かぶれであれば良いと考えた時代もある。それで、実際にアメリカに行って暮らしてみて、良い体験もあったが、結局私にとって必要なのは、自己の改革であることに気がついた。

そして、25年が過ぎてしまったのだが、まだまだ自分の弱さに振り回されることがある。だから、必要なのは、改革、CHANGEなのだ。

そのために、神は私の周りに、すばらしい人材を配置してくださっている。妻もそうだし、新しく生まれた娘、そして両親、友人、教会、ミニストリーの仲間たち。皆が、私にとっての「鏡」となり、私の弱さを助け、また変革することを助けてくれるのだ。

今年もあと3ヶ月とちょっとである。

そろそろ今年分の「変化」のたな卸しもしなければならない。私はどこが成長できたのか。どこの改革が出来たのか。これから必要なCHANGEとは何か?

皆さんの精神的霊的決算の調子はいかがですか??

Thursday, September 10, 2009

パターンからの脱出

なくて七癖である。

自分の癖とはなかなか無くならない。なぜかというと、それに気がついていないからである。自分の日曜日の教会でのメッセージを録音して聞いてみると、決まった口癖があるのがわかる。これは自分でも大層聞きにくいものなので、直そうとするのだが、少し気を抜くとまた顔を出す。同じように、しぐさや目つき、あるいは歩き方に至るまで、人間とはいわば癖の塊である。

まあ、それが人畜無害の癖であればよいのだが、人生の方向性を決めてしまうような癖であると、これは大きな問題となる。

私もあるときから、自分の「人生の癖=同じパターン」の繰り返しに気がついたことがある。それは、大きな失敗をして、自分の失敗パターンに気がついたことであり、痛い目にあって、ようやく気がついたことであった。

限られた人生、それも長くても80年?あるいは100年?である。人生の半ばを過ぎてみて考えることは、残りの生涯は、自分の負のパターンではなく、正しく、積極的に人生を切り開くパターンで生きたいものだ。

その意味で、人間には鏡が必要である。それも、足を長く見せるような、偽った鏡ではなく、本当の自分の姿を見せる鏡である。

神社の社の中には、ただ丸い鏡が置いてあることがある。それは、自らを移して、自己をチェックするものであるとも言われている。

一方、聖書とは、自分を映し出す「言葉の鏡」でもあるのだ。

だから、聖書に取り組むと、自分の醜さ、弱さが等身大で見せられるのだ。その結果・・・私たちは、誰も非難することが出来ずに、ただ、自分が悔い改めるしかない存在であることが分かってくる。しかし、いったん聖書の言葉から目を離すと、とたんに、自我の塊である「我」が投影されてしまうのだ。

我で生きるか、聖書の言葉で生きるかが人生の分かれ目であり、実はそれが、永遠のいのちへの道のりでもある。

とにもかくにも、私たちは、自らを点検して、毎日再出発し、過去のしがらみから離れ、真の自由人として生きることが必要だ。そうするならば、人生の負のスパイラルから脱出して、本当に、楽しく、建設的な人生を歩むようになる。

そうすれば、目に入るものすべて感謝であるという、あの救いの喜びとはじめの愛に立ち返ることができるのだ。

Tuesday, September 08, 2009

ノアの箱舟

昨日までできなかったことが、今日できるようになる。子供が生まれてから二ヶ月を過ぎ、毎日の成長を観察している。子供は、毎日新しい能力を発揮し、それを練習し、そして自分のものとしていることが良くわかる。

たとえば、自分の指をなめる・・・・これも最初はできないことであったが、今では楽勝である。

まだ、首は据わっていないのだが、だいぶ縦の位置で抱っこができるようにもなった。これもまた、成長の証である。

そんなわけで、毎日が新しい発見である子供の人生は、非常に楽しいものに違いない。一方私たち大人はどうであろうか?いつも、「疲れた・・・難しい」と告白しているだろうか?子供は、疲れても、難しくても、目の前のチャレンジをやめようとはしない。そして、そのチャレンジをやめてしまうとき・・・、私たちの老化が始まっているといえるのだろう。

かく言う私も、最近チャレンジ精神が少し衰えていることを感じている。どんな些細なことでも、やってみる気持ちを失ってはいけないのだ。

ノアは、まったく雨の降らない世界で、洪水に備えて箱舟を作った。それは、周りの人から見れば、荒唐無稽で嘲笑の対象であったのだが、それが、世界の滅びから救われる唯一の道であったのだ。今の世界も同じである。

私たちが信じる「聖書の神への信仰」は、現代のインテリには古臭い、愚かな思想に見えるだろう。「多様性のみを信じる思想哲学」からみるなら、唯一の神のみを信じることは「狭量な価値観」に見えるだろう。

しかし、ノアは、神から与えられた能力と知恵で、巨大な箱舟を建造した。彼の生涯と、彼にあるあらゆる賜物、そして未知なることにチャレンジする勇気は、彼らを救うことになった。

歴史は繰り返すのである・・・現代のノアの箱舟に入る信仰こそが、来るべき崩壊からの唯一の救いの道なのだ。

私たちは、周りの冷笑、嘲笑を気にすることなく、淡々と主イエスの十字架に基づく、神への信仰を追及するのみである。それが、今の時代の、滅びから救われるための最大のテーマであると思うからである。

Sunday, September 06, 2009

カーネルオータムフェスティバル









昨日は、横浜でFRJという賛美集会の出張を行ないました。音楽だけではなく、踊りもあり、朗読劇もありと多彩な内容でした。私はずっと舞台の袖にいたので、そこからの写真ですが、雰囲気だけお届けします。和気藹々とした、すばらしい集いでした。お祈りくださった皆様に感謝いたします!栄光主に。

Friday, September 04, 2009

ベランダビオトープのその後




水草の種類も増やして、スイレンの花も咲いています。適度に苔も生えてきて、環境はよくなりつつあります。

ホームセンターで買ってきたヒメダカは、ほぼ全滅・・・。水温が高すぎたのかもしれません。昨日、近所の金魚屋さんで黒めだかを飼ってきました。こちらのほうは、元気がよさそうです。少し秋めいてきましたので、水温も大丈夫でしょう。水中のバクテリアの働きなどが良くなると、循環型の環境が生まれるそうですが、もう一歩という感じです。

ちなみに、ヤマトヌマエビも買ったのですが、勝手に外に飛び出してしまい、ご臨終でした。ということで、今はメダカだけを飼っています。

でも、こんな小さな生き物でも眺めていると、和みますね。ベランダにあるこのような小自然も簡単ですので、チャレンジしてみたらいかがでしょう?

Thursday, September 03, 2009

ダビデの詩

ダビデは偉大な詩人であり、歌人であり、竪琴の奏者であった。羊飼いの家族の末っ子であり、戦士となり、後に、イスラエル王国の王となった。

今で言えば、シンガーソングライターであり、サラリーマン家庭の末っ子であったが、自衛隊に入隊し、後の大統領であるという感じであろうか。

まあ、このたとえは、あまり正確ではないけれど、ごくごく目立たなかった少年が、波乱万丈の人生の中で、成長していく過程が聖書には描かれている。

私はそんなダビデが大好きなのだが、それは彼が極めて正直な人間であるからである。あるときは、戦場における嘱託殺人によって愛人バテシェバの夫を戦死させたりしている。そして、その罪を隠したままであったのだが、預言者にその罪を指摘され、神の前に七転八倒の末、悔い改めている。(詩篇51編)

本当に彼はリアルな一人の男であり、そして、神の前に正直な人間であった。だから、彼だけが聖書の中で、「わたしの心にかなう者」と言われているのだ。
使徒13:22
(22) それから、彼を退けて、ダビデを立てて王とされましたが、このダビデについてあかしして、こう言われました。『わたしはエッサイの子ダビデを見いだした。彼はわたしの心にかなった者で、わたしのこころを余すところなく実行する。』
神の人間に対する視点はこれである。神は、神の前にとりつくうことなく、正直な人間を喜ばれるし、建て上げるのだ。(後に多くのことを任せてくださるようになる。)

人の倫理観や価値観は、非常に相対的なものである。だから、それらをすり合わせようとする時、必ず不一致があるし、見解の相違が生まれる。しかし、神の前には、一つの倫理観と価値観しか通用しない。ゆえに、人間はどんな立場の人間であれ、悔い改め、心を新たにしてもらい、再出発するしか道はないのだ。(たとえあなたが一国の総理であっても。)

アインシュタインが時間を「相対的なもの」として論理付けたのは、確かにこの世界の事実である。高速で移動するロケットの中から外を見ると外の世界は縮んで見えるわけだ。しかし、神はその相対世界の対象ではない。神は首尾一貫して超越絶対存在であり、その絶対の中に決してぶれることのない、愛と義が存在している。

だから、私はあらゆる人間の正義感には組しない。人間側の判断は一元的であり、ある面での真実でしかないからだ。物事は、単に是々非々でしかないし、最終的な判断は神にゆだねられているのだ。

私にも、もちろん主義主張はあるし、私が及ばない世界や価値観も多々ある。だから、私という個人が裁き司として振舞うことは、できたとしても極めて限定的な領域である。それは、神が私に任せた家庭とか仕事におけるものである。また、それであっても、人間が神よりも大きなことを言ってはならない。それこそ、勇み足という「負け技」なのである。

たとえば、今回政権をとった民主党が、自己満足と自己愛に走って、傲慢に政局を運営し始めるなら、それは崩壊の先立ちとなるであろう。テレビで、得意絶頂の民主党議員を見ると、私は、不安を覚える。こんな人たちでは、早晩国家的危機に立ち向かうことができないことが国民の前に露呈するだろう。

そのようにして、歴史は存亡を繰り返しているのだが、我が身に目を転ずるなら、やはり、神の前に頭(こうべ)を垂れて、自らの不徳を悔い改めるしかないのである。

しかし、その悔い改め・・・考え方の一新・・・が与えられることは、何にも増した神の祝福である。そうするならば、あの悔い改めたダビデの道を歩むことができるだろう。そして、神の「心にかなう」喜びと平安と愛に生きるようになるのである。

人生の道とは、いかにして神と邂逅するかという道である。

いたずらに、権力と権謀を求めるならば、そこには自滅の道しかないのであろう。新政権を担う民主党の諸君が、野党時代の仕返しをこれから自民党にするなら、きっと逆の政権交代が近くなるのである。

ということで、今の日本は大きなうねりの中にあり、ある種、本当に見所の多い時代となっていると感じている。

Tuesday, September 01, 2009

敵は本能寺にあり。

敵は本能寺にあり(てきはほんのうじにあり)は、戦国時代の武将明智光秀本能寺の変の際に発したとされる言葉。主君の織田信長より備中毛利を攻めるように命じられていた光秀の軍勢は、討つべき敵は本能寺にいる信長であるとして急に進路を変え、京都の本能寺に向かう。(WIKIより)

さて、この有名な言葉であるが、戦国時代のクーデターと三日天下の事象として有名なのだが、敵がどこにいるのかという設問はとても重要だと思う。

この世では、敵は常に外部にいる。

野球の試合から、会社同士の業績の競争に至るまで、あらゆる場面が敵との遭遇であると見える。昨今の与党と野党の政治的対決も同じ図式であり、マスコミはその対決を煽ることにより、視聴率を伸ばしている。

しかし、我が敵は外部にあらずというのが、聖書の結論である。つまり、敵は自分の内面であり、内面にうずく傷に根ざす憎しみである。内面の敵がもたらすあらゆる反応を制することなしに、本当の人生の勝利はないし、もちろん外界での勝利もない。

人は外面を見るが、神は心を見ている。

傷のない人間はいないし、恨み心を持たない人間もいない。劣等感のない人間もいないし、高慢さをもたない人間もいない。

あの絶世の美女だったオードリー・ヘップバーンも、自分が「やせすぎ」であることを苦にしていたそうだ。彼女は拒食症に近い症状があったようで、当然瘦せぎすである。銀幕の彼女は本当に美しかった。しかし、彼女の内面には、肉体的劣等感があったのだ。

このように、たとえこの世で一番すばらしい外観を持っていてもなお、劣等感にさいなまれるとするならば、凡人のわれわれは言うまでもなく、劣等感とその裏返しの傲慢さに満ちた存在である。

だからこそ、主イエスの十字架の救いが必要なのだが、それに気づく日本人はまだまだ少数派である。

先日、私は十字架の前に、鉄の鋲が仕込まれたムチで打たれ、背中が裂かれ、血みどろになった主イエスの傷の痛みの中に、私たちの過去にある、あらゆる精神的苦痛が含まれていたということを改めて教えられた。
イザヤ書53:5 (旧約聖書)
(5) しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。

1ペテロ2:24 (新約聖書)
(24) そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。
この二箇所の聖書の箇所は、旧約と新約で同じことを言っているのだが、主の受けたあらゆる打ち傷は、私たちの精神的苦痛と肉体的病気の全てを含んでる痛みだったのだ。神の御子である主イエスは、こんな傷を受ける筋合いはどこにもない存在だったにも関わらず、自ら導かれ、十字架の道を進んだのだ。これが、よく言われる「茨の道」である。人間は、苦悩から逃げようとする本能を持っている。しかし、主イエスは、十字架の道を逃げることなく、苦悩へ自ら近づいていったのだ。(彼は男のなかの男であった。)

主イエスの行動パターンは、人間としての心理学上ありえない方向性であると、ある心理学者が分析していた。つまり、主イエスは、人間だったら100%進む道の、真逆を歩んでいたのだ。

何のために?

今の私たちが、苦しみから解放されるためである。

現代の私たちは、自分の傷をお手軽に治してくれる「覚醒剤的」娯楽や興味を求めている。また、それは娯楽や酒ばかりではなく、宗教や仕事に没頭することかも知れない。いや、最も厄介な解決法はそのような、盲目的没頭(現実逃避)にあるのだ。

しかし、そのような人間のあがきでは、本当の解放には行き着かない。昨今の薬物汚染された芸能界は、まさに人気商売の中で、痛みを忘れようとしている人間の性(さが)を見せ付けているに過ぎないのだ。私たちは彼女を非難するが、本当はそんな余裕はないのである。一般の人も、クスリは使わなくても、方向性は同じである。

ゆえに、自己の内面という敵に対する勝利は、「敵は自己にあり」と悟ることから生まれる。

あなたの心の戦国時代は、すでに、終わっているだろうか?それとも、まだ敵を外界に捜し求め、下克上の心を生きているのだろうか?

台風一過

衆議院選挙も終わり、台風も通り過ぎて、今日は南風で温度が急上昇している。

日本のように四季の美しい国はそうあるものではない。そして、日本には季節ごとの風物詩がちりばめられていることも素晴らしい恵みである。日本人はこの約3ヵ月後との季節の移ろいを受肉しながら、人生を過ごしている。だから、年四回の季節感と共に、年輪を刻んでいる日本人の勤勉性とか、微小なことにこだわる性質(繊細さ)も、この季節感から来るものであろう。

9月には入れば、町を歩く女性の衣装が、とたんに茶色系に変わる。まるで、木々の紅葉の様に人の衣も変わる。このような身のこなしを身につけているからこそ、歴史が転回したときにも、柔軟に対応できるのだろう。

1945年の夏はそのような瞬間だったろうし、明治維新のときもそうだった。

そして、今回の選挙である。

四年後に自由民主党が存在しているのかどうかも分からないほど、民主党が圧倒的に勝利した。これから組閣される鳩山政権が一体どんな変化を私たちにもたらすのかは未知数だが、すでにサイは投げられたのだ。

高速道路が無料(?)とか言われているが、結局どこかの部分を増税するわけだろう。そして、興味があるのは、対米関係である。アメリカには、多極化を願う勢力と、単一的に統治したいという勢力があるそうだ。もし、これから、日本政府がアジア重視とか言うと、多極化勢力が喜ぶわけで、その一方、アジアにも軍事的危機が生まれる可能性もある。

私は、この政権交代が、これからの時代を良くも悪くも多極的混乱に導くのだと感じている。その中で、個人的に、確固たる指針を持って生きなければ、時代に翻弄され続けるだろうと思う。

だから・・・。

繰り返し私の主張は、不変である神の側に住むことの重要性である。

これからは、生き方のよりどころがはっきりとしてくる時代であろう。その意味、今回の政変は良いことなのだと思う。しかし、時代は、さらに緊迫することを忘れずに。

Monday, August 31, 2009

楽しい人生

以前猫を飼っていたのだが、この猫(オス)の性格は非常に陽気だった。およそ、落ち込んだ姿を見たことがなかった。(猫も落ち込むのですか?という突っ込みは当然あるが。)

そして、彼は、私が様々な出来事で、ダウンしている時、本当に慰めてくれたのだった。彼は、私が途方にくれて横になっていると、胸に飛び乗り、額をこすりつけて、私に何かを訴えているのだ。そのようにして、一匹の猫の慰めで、私もずいぶん助けられたものだ。

さて、猫に比べて、人間はややこしい性格を有しているのだが、私は基本的に「楽しいこと」を是とする人間である。これが、ある意味、人生の大結論でもある。

25歳でクリスチャンになるまでの、真理探究の旅では、色々と思想的放浪をした。その結果、アメリカまで留学して、日本を遠く離れることで、思想的な始末を付けようとしたのだが、これは大正解であった。つまり、アメリカで、主イエスと出会ったからだ。

イエスは、ご自分のことを、「道、命、真理」であると表現している。

だから、主イエスと出会うなら、そこには本物の道があるし、命があるし、真理がある。だから、もう迷わなくてもよくなった。

さて、それからの人生の旅路で何を発見したのか?

それは、あらゆる否定的なこの世の有様を見て、それに巻き込まれず、「楽しい」人生を歩むということである。人生を楽しむのではなく、楽しい人生を送るのである。

何が違うのか?

人生を無理やり楽しもうとするなら、そこには歪が生じる。なぜならば、人生とは不条理に満ちているからだ。しかし、楽しい人生を自ら選択するならば、話は違ってくる。そこには、自己の洗濯、いや選択に基づく平安が伴うのである。

楽しい人生は、外部的な環境や状況によって与えられるのではなく、自らの選択によるのである。

だから、聖書は「いつも喜んでいなさい!」という選択を私たちに迫っている。(これは、私の妻がいつも、私に対して教えてくれることである。)

人間である以上、否定的な思いもまた容易に選択できるのだが、もちろん、それがもたらす人生は、暗く、落ち込む、非生産的なものである。

かく言う私もかつて、とてつもない人生の暗部に立ち入り、もう少しでホームレスになるという瀬戸際まで追い込まれたことがある。そして、借金の返済のために、道路工事現場の警備の仕事から、戸別訪問の営業マンまで、やれることは何でもやった。(そこで学んだものは、人の優しさであったり、労苦に伴うささやかな幸せでもあった。)

そして、今痛感するのは、人生の局面で不必要な出来事は一つもなく、そして意味のないことも一つもないということである。人生を鳥瞰図的な視点で見ることができるなら、神は、私たちが、膝をかがめて、「主よ、あなたしか正しい方はいません!」と告白できるまで、私たちをあえて苦難を通して訓練していることがわかるだろう。。

こうして、私たちは、人生の本当の妙味である、「楽しさ=喜び」に到達するのである。

楽しい人生。これが送れるように、今から新しい決断が求められているのだ。

人を楽しませ、笑わせる、コメディアンは、偉大な仕事をしている。人を怒らせ、悲しませるよりも、人を楽しませる人間になるほうが、よほど難しい。

私の友人のクリスチャンは、プロの「お笑い」の人間である。しかし、彼女の過去の人生は大きな苦しみを経ている。その苦しみの故に、彼女は、多くの人に希望を与える「笑い」を提供できるのだ。

私が見習うのは、そのような人生である。

楽しい人生を送るために、今日、新しい決断をしよう。

あなたの神は?

主を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。(箴言1:7)

これは、有名な聖書の言葉なのだが、主を恐れることが、すべての知識の始まり、つまり基礎的事実であることを教えている。

あなたにとっての神は何であるのか?

これを直ちに見分ける方法がある。

それは、「あなたが最も恐れている存在(概念なども含む)」こそが、あなたにとっての神であるという識別の方法である。

  • あなたが、もし、経済的状況(個人の資産)のあるなしを常に恐れているのであれば、「金銀」があなたにとっての神であり、それがあなたを支配している。
  • あなたが、もし、他人の目(自分の評価)を、常に気にして、それを恐れているのなら、あなたにとって、他人、つまり人間が「神」なのだ。そして、他人があなたを支配することになる。
  • あなたが、もし、自分の健康状態だけを考え、恐れているのなら、自己の肉体および「病魔」が、あなたの神となっているのだ。この場合、病気への恐怖があなたを支配していることになる。

これらすべては、偽りの神であり、偶像なのだ。(ブッダの像だけが、偶像ではない。)

だから、私たちは、「主を恐れること」という基礎を持たなければならない。

私たちの主とは、この宇宙を創られた全能の神である。

この神こそが、愛であり、真理であり、義である。

どうであろうか?あなたは、今何を恐れて生きているのか??

これを発見し、偶像礼拝を悔い改め、真の神に立ち帰ることができるし、それが最も重要な自己内省の道である。

最近はこんな感じ


うつぶせが少しできるようになってきました。

政権交代

民主党が圧倒的な勝利。自民党壊滅的な敗北。公明党が政権から退場。

戦後最大の変化があったわけだが、これからの動向は非常に重要だ。

国会は民主党の圧倒的な勢力があるので、法案審議は、民主党が主導できるようになった。これで、本当に良い方向に行くことを期待する。

とはいえ、政治や外交は、報道されない部分で最も重要な決定がされることは、今後も変わらないだろうから、私たちは、マスコミだけに頼らず、真偽をしっかりと見分ける力が必要である。

Sunday, August 30, 2009

台風11号

http://www.jma.go.jp/jp/typh/

現在本州に接近中。直撃しそうなコースですね。対策はきっちりしておきましょう。怪我などしないように。

Saturday, August 29, 2009

明日はどうなる?

明日は衆議院の選挙である。久しぶりの大型選挙となるが、結果は如何に?

この秋は、インフルエンザの大流行を控えているし、株価などの暴落なども予想する人もいる。つまり、社会的混乱である。

たとえば、民主党圧勝ー政権交代ーご祝儀相場ーインフルエンザ社会不安(大地震??)ー株価大暴落(中国バブルの終わり?)このようなことも、予想できるのである。

まあ、私は経済の専門家ではないので、あくまで野次馬的発言であるが、今年の当初から、後半には大きな変化があると考えてきた。順当に言って、自民が力を失うであろうし、その後の政治的変化は、日本にとって未曾有の試練をもたらすと考える。

そんな中、いつも書いていることだが、神への信仰だけが、私たちの礎となりうる。変わるものがある反面、変わらないものもある。それが、信仰の世界である。

科学者であれば、より新しい理論や発見を求めるだろうし、技術者であれば、技術の革新を求めるだろう。つまり、すべては移りゆく世界である。しかし、信仰は逆に極めれば極めるほど、不動のものを見出す。それが、全能の神の存在であり、その属性たる愛、清さ、美しさである。

人間の人生を、移ろい行くものを求めることだけに使ってはならない。なるべく早いうちに、不動なる礎を持つべきである。それは、発見可能な、「主イエスの十字架の福音」に他ならないのだ。

私は、このブログを何のために書くのか?

それは、人生の空しさを早く知ってもらい、そして、本当に求めるものを掴み取っていただきたいからである。

すべては、空の空と、聖書の知者は語っている。その一方、神はその無限大の空虚さを満たすことのできる唯一のお方であり、その方を知るなら、あらゆる人間的争い、失望、ねたみ、虚勢、虚構、欺瞞、嘘、偽り・・・・・・から解放されるのである。

この秋に期待するは、抜けるような青空の下にある、われわれ人間の生活が、神への信仰という、初心に戻ることである。

Friday, August 28, 2009

永遠

今日は、知り合いのクリスチャンの方が召されたので、その前夜式に参加しました。明日が告別式となります。彼は86歳の生涯で、非常に長寿でありました。また、私の父の良い友人でした。

やはり、葬儀に出るたびに、命とは何かと考えます。生きている時には分からない何かが、人の死によってクローズアップされるわけです。そして、やはり生きている間に、もっと神の愛を体験し、実践しなければならないということを思います。

人間の悩みとは永遠の命ということを忘れてしまっていることから始まります。永遠という基準で、物事を理解するなら、この日常はまた違った光で見えるのです。

幻から夢へ

日常の幸せは非常に大切である。私たちは、日常を妄想で生きているわけではなく、目の前の出来事を一つ一つ処理しながら生きているのである。

だから、日常を楽しく、充実して生きられるように努力すべきである。ものすごい大きな幻について考えるのも良いのだが、それゆえに、足元が固まらないということもある。

聖書は、「若者は幻を見て、老人は夢を見る」という箇所がある。これは、若い時代には、届かなかった幻が、老人になると夢となって現実化の一歩手前まで来るということだろうか。私も、決して若者という年ではなくなったが、それゆえに、現実的な勝利を日常的に「体験」するようになって来ている。私の言う勝利とは、他人との競争を勝ち抜くとか、地位や名誉を得るというものではない。その勝利とは、自己に打ち勝つこと。もっと言えば、自分の弱いところに、神の恵みの力が大きく働くということを目撃することだ。

若いうちは、他人の目を気にして、自分の弱さを隠し(劣等感)、そして非常に遠回りな道(傲慢)を歩む。しかし、年月を経て、もはや自分の弱さをことさら隠すこともできなくなり、結果として神に向かってすぐに心を開くようになる。だから年を取ることは良いことだ。

私も、今年で50歳である。うーむ、これは考えられないほどの年齢である。が、しかし、人生はこれからである。これからもっと、夢を日常化する時代が始まっているのだ。神への信仰は、あなたの中の幻、夢を実現化するための動力である。

生きるってことは素晴らしい!と言えることは、何億円もの資産を持つことより大切なことだ。

Thursday, August 27, 2009

家族愛

私の理想とする教会は、家族的な教会である。

主イエスは、12人の弟子たちを、家族同様に扱っていたことだろう。そして、その極めて緊密な愛の故に、どんなに厳しい言葉をかけても、彼らは傷つかなかったであろう。

もし、家族でなければ、言葉の世界ではあらゆる争いが生じるだろうし、その修復は難しいものとなる。

私が香港で見たある教会は、その中にあまり序列がなく、家族として(数千人規模)の教会が成立していた。もちろん、細かいところまでは知らないのだが、一般的に序列が決まっている(平信徒という言葉もあるくらいである。)教会とは別であった。

これは、理想論なのだが、主イエス以外には、「先生、師」はいないというのが、私の理念である。社会通念上、先生と呼ばなければならないケースが多々あるのだが、根本は、私たちは、神にあって、家族的兄弟姉妹であるべきである。

私も、風間さんと呼ばれることを喜ぶ者である。あまりにも先生と呼ばれると、知らないうちに常識を失うのが人間のサガであるのだ。(ある種の国会議員や学校の先生のように)

まあ、理想と現実のギャップは多々あるのですが、これから目指すのは、家族愛に満ちた教会形成です。

あれこれ、雑感(賛美についてなど)

FRJという賛美集会を、毎週水曜日の夜東京で行なっています。そして、9月5日には、横浜で、初の「出前FRJコンサート」を行ないます。その練習をしているのですが、メンバー一同の息もだいぶ合うようになりました。でも、まだまだ練習が必要です。

プロは、とにかく練習をします。繰り返し繰り返し・・・。それがプロである証ですね。ある種、練習を狂ったように、集中できるかどうかが、プロになるかどうかの分かれ目なのですね。

私も生まれた時から(?)楽器が好きで、中学時代から40年近く楽器に触れていますが、本気で練習した若い日々のことを思い出します。ビートルズを狂ったように聞き、一体何時間ギターを弾いていたのか分かりません。プロの曲を耳でコピーをするのに、一体何時間かけたのだろう?あるときは、クラシックのスコアを買ってきて、レコードにあわせてタクトを振りました。今また、毎週賛美集会をしたりすると、その時の情熱を思い出します。

どんな分野でも、集中して極めること。そうするならば、ようやく人前で披露できるようになります。一般的に言って、教会の音楽レベルはかなり低いです。それは、練習をしないからなのですね。適当なところで妥協してしまうことが多いのです。そして、楽器や音響機器にもあまりお金をかけない・・・。

私は、知恵を使えば、機材も安くて良いものを選ぶことができることを知っています。楽器も中古でよいものを手に入れたりしています。自分の気に入った楽器を手入れし、調整をすることも必要です。何よりも、楽器を「愛して」自分が好きな楽器を使うことが重要ですね。

ミュージシャンとは、本当に犠牲を払って、何十万円(何千万)もする高価な楽器を買い、時間を費やして練習をし、そして、重い機材をあちこちに運んで演奏しているのです。どうか、音楽家を見たらどうぞ、その点も感謝してあげてください。

こうして、ようやく基本ができるわけですが、賛美の奉仕は、もう一つの側面が重要です。

それは、心に「平安」を持つことです。

あれこれ雑念があると、まったく賛美の奉仕になりません。心が主だけに向くこと。このことは何よりも重要です。音楽がうまいだけでは賛美にはなりません。ハートが主に向かって燃えているか?その上に、技術と投下した時間とお金が生かされてゆくのです。

私は、クラシックの最高技法から、ジャズの即興演奏、一流のポップスの音楽技術まで神に捧げられると信じています。また、PAなどの音響技術者たちも、音楽家と同様に尊い奉仕者なのです。私も今ある自分の音楽技術をもっともっと高めて、神に捧げ、人に奉仕したいと願っています。

主にある音楽家がもっと増えて、神にも人に愛され、この世で、麗しい賛美を捧げる機会がもっと増えるようにと願います。

Wednesday, August 26, 2009

今日はこんな感じ

Tuesday, August 25, 2009

今日はこんな感じ

Monday, August 24, 2009

洗礼式

これは、我が家(教会)の風呂場での洗礼式の写真です。一人の若者が、主イエス・キリストを信じて、新しい命を頂き、新しい歩みを始めました。洗礼式はいつも、大きな感動に包まれます。

洗礼は、水があれば、川でも、海でも、自宅の風呂場でも行なうことができるのです。

Sunday, August 23, 2009

唯一の神

神はただお一人(唯一の存在)である。つまり、信仰は一神教しかないのである。

最近の日本人が、欧米文化や中東文化の表面だけ見て、「宗教戦争をもたらす一神教は愚かである」などとコメントしていることが多い。そして、日本のような「八百万の神」のほうが寛容で良いという人もいる。

さて、神が唯一であることに何が問題があるのだろうか?

考えてみてほしい。もしあなたという個人が「八百万」も存在していると、私が主張するなら、あなたは「そんな馬鹿なことはない。私はただ一人である。どうして、わたしが、そんなに多く存在するのか。」と答えるだろう。つまり、人間は、個人が一つの実態であることは、身にしみてわかっていることだ。だから、疑問の余地もないことである。

しかし、そんな個たる人間は、神については、複数以上であるといって平然としているのである。そして、それらの神々が「共存」しているとさえ言うのである。一体、神々の共存とはなんたることだろうか?

神は、ニューエイジが言うような意識的存在でもなく、汎神論が言うような複数神でもなく、もちろん、無神論のように存在を否定できるものではない。

最初から最後まで、神は唯一であり、創造主であり、確実に存在し、私たちにとっての、もっとも崇めるべき存在である。

神は唯一である。それでは、その唯一の神をどうやって知ることができるのであろうか?

今日は、この問いかけで終わることにする。

スイレンが咲きはじめました

今朝、つぼみから開花。まだ小さな花ですが、もっと大きくなるでしょう。

Friday, August 21, 2009

FACEBOOK

FACEBOOKを使っていたが、あまりに友人が増えすぎ、さらにエントリーも増えすぎて、とても全部読むこともできないし、対応もできなくなったので、利用をストップしました。

このようなネットワーク関係のサービスも、あまりに機能が増えすぎると、コントロールができなくなるということを学んだ次第です。

友達は多いほど良いけれど、人間の付き合いには限界がありますよね。つまり、誠実に付き合えないのであれば、多くてもしょうがない・・・。

主イエスも12弟子でしたし・・・。

ということで、FACEBOOKはひとまず終わりにしますが、人間関係は終わりません。そこんとこヨロシク!

今日はこんな感じ

Thursday, August 20, 2009

詩篇91

H1N1、新型インフルエンザの話題をマスコミが急に取り上げている。きっと多くの方が恐怖を抱いているに違いない。

かつてのスペイン風邪のように、全世界的に猛威を振るうことは間違いなさそうだ。そして、その背景に関しては、多くの論調があるのだが、それを詮索するよりも大事なことは、自分の心に深い平安を持つことである。

こんな時、思い出すのは詩篇91編である。よく、苦しい時の神頼みは、弱い人間のすることだと言うが、それは全く逆である。今のように、「疫病」への恐怖があるとき、それを超えて神への不動の信仰を持つことは、弱い人間のできることではないのだ。

逆に言うなら、神の言葉である、この詩篇の約束に信頼するなら、まことの神は私たちを徹底的に守るのである。これ以上の平安への約束はないのだ。

詩篇91編は次のような言葉である。どうか私たちに、この御言葉を信頼する心が与えられるように。

詩篇91:1-16
(1) いと高き方の隠れ場に住む者は、全能者の陰に宿る。
(2) 私は主に申し上げよう。「わが避け所、わがとりで、私の信頼するわが神。」と。
(3) 主は狩人のわなから、恐ろしい疫病から、あなたを救い出されるからである。
(4) 主は、ご自分の羽で、あなたをおおわれる。あなたは、その翼の下に身を避ける。主の真実は、大盾であり、とりでである。
(5) あなたは夜の恐怖も恐れず、昼に飛び来る矢も恐れない。
(6) また、暗やみに歩き回る疫病も、真昼に荒らす滅びをも。
(7) 千人が、あなたのかたわらに、万人が、あなたの右手に倒れても、それはあなたには、近づかない。
(8) あなたはただ、それを目にし、悪者への報いを見るだけである。
(9) それはあなたが私の避け所である主を、いと高き方を、あなたの住まいとしたからである。
(10) わざわいは、あなたにふりかからず、えやみも、あなたの天幕に近づかない。
(11) まことに主は、あなたのために、御使いたちに命じて、すべての道で、あなたを守るようにされる。(12) 彼らは、その手で、あなたをささえ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにする。
(13) あなたは、獅子とコブラとを踏みつけ、若獅子と蛇とを踏みにじろう。
(14) 彼がわたしを愛しているから、わたしは彼を助け出そう。彼がわたしの名を知っているから、わたしは彼を高く上げよう。
(15) 彼が、わたしを呼び求めれば、わたしは、彼に答えよう。わたしは苦しみのときに彼とともにいて、彼を救い彼に誉れを与えよう。
(16) わたしは、彼を長いいのちで満ち足らせ、わたしの救いを彼に見せよう。

Tuesday, August 18, 2009

なんちゃってビオトープ  2



ベランダに置くビオトープ。小さな生態系であり、まあ普通の池みたいなものです。

今日はスイレンに加えて、ホテイ草とめだか用の水草(カモンバ)を入手して設置。そして、ヒメダカを12匹放流しました。これで、生き物の棲む池となりました。えさは一切やりません。これでどうなるのか?と思いますが、経過はまた報告します。

ヒメダカは一匹21円。どうも半端な値段ですな。

ps: 12匹のメダカのうち、5匹は脱落・・・。水が合わなかったのかな?メダカを飼ってから、水がものすごくきれいになりました。ゴミも含めて、全部食べてしまうようだ。当然、ボウフラが沸いても大丈夫ということになる。メダカはものすごい肉食(雑食)なのですね。

ps: ヤマトヌマエビを二匹買って入れてみたが、これは夜行性?昼間は見ることができない。一体どこにいるかも分からない。ビオトープは上からしか見えないので、彼らの生態はなぞのままである。

ps: 市販のヒメダカは、大型魚のえさとしても売られているのだが、あまり健康ではないようだ。生存率は半分ぐらいである。


君の瞳に乾杯



Monday, August 17, 2009

いつも感謝しています!


娘が生まれてもうすぐ50日ほどになります。子育てのリズムにも慣れてきたのですが、それと同時に、新生児から乳児に移行する子どもからの要求も増えてきました。さらに、妻が乳腺炎に!

しかし、神の恵みで守られています。子どもの便秘はまだ続いていますが、綿棒で処置すればとりあえず大丈夫。考えてみれば、まだ立ったり歩いたりできない子どもが、○通をするというのは、結構大変なことなのですね。たまに、真っ赤な顔でいきんでいますが、足は宙を浮いている・・・。ということで、力が入らないのですね。(こんな話題ですいません。しかし、新生児にはよくある症状なのです。多くの母親が、子どもの便秘で悩んでいるのですね。)

かかりつけの小児科の女医さんは、非常に明るくて親切な医師です。彼女の指導もあって、順調に進んでいます。そして、友人の先輩ママさんたちからも、毎日多くのアドバイスをいただいていおります。そして、何よりも、私たちのことを忘れずに祈ってくださる方々が、日本だけではなく多くの場所(国)におられます。何という大きな恵みでしょうか。主イエスに感謝!

そして、皆様の愛に改めて、感謝いたします!

ということで、皆様の上に主イエスの祝福が、何倍にも増してありますように!

Sunday, August 16, 2009

オレゴン1985  その2

前回より続く。

私は漠然とアメリカはクリスチャン国であると考えていた。通学のバスから見ると、確かに教会の建物はあちらこちらにあるのがわかった。それもかなり大きな建物だ。アメリカには、どこの町にも教会が数軒以上かならずあるのだ。さすがクリスチャン国である・・・。

しかし、私が大学で目にする学生たちは、全然宗教的ではない。いわゆる敬虔なクリスチャンなど、どこにもいないように思われた。私が通っていたコミュニティカレッジとは、基本的に地元の一般的な学生のための短大のような教育機関である。入学のための学力はさほど要求されないので、高卒で地元の人であるなら安く授業を受けられる。州立大学や、いわゆるアイビーリーグなどの有名私立大学とはまるで違う、庶民的な大学であり、学生の質もそんなに高くなかった。そんな雰囲気の中で、私はある一つの課題を持つようになっていた。

それは、留学して間もない頃の出来事から始まるのだ。

留学のため、成田空港から旅立ったのは、1985年3月24日のことだった。数人の友人が、成田まで見送りに来てくれた。皆、高校からの親友たちで、社会人となったばかりの若者である。

「風間、お前は勇気あるなあ。」
「とにかく、がんばって来いよ。」

このような声をかけられて、私はタイ航空のジャンボ機で、生まれ始めてアメリカに旅立ったのだ。たった一人で。

普通、留学する場合、日本の留学団体に申し込み、そこを窓口としてアメリカの語学学校(ESL)の入学手続きをする。さらに、ホームステイの滞在先を紹介してもらい、空港まで出迎えに来てもらうのである。そうして、数ヶ月間は、アメリカの暮らしに慣れるために、ホームステイ先の家族が色々と面倒を見てくれるのである。

ところが、私の場合、たった一人で、2つの荷物を持って、アメリカの大学の本科にいきなり入学するという段取りだった。そして、まず大学で寮を紹介してもらい、そこで生活を始めるという手はずだった。実際、アメリカの留学ビザ(I-20)を取得するためには、TOEFLのテストを受けていたし、そのスコアが507点であったので、語学学校には入ることなく、本科の入学を許可されていたのだ。このTOEFLのスコアが思いのほか高かったおかげで、私は時間を短縮して大学に入れることを喜んでいた。

しかし、成田からの飛行機を降りて、シアトルからポートランドへ向かい、いざ近くのホテルに泊まろうとした時から、自分の英語がほとんど通じないことに気がついていた・・・。

空港では、ようやくの思いでタクシーに乗り、近くのモーテルにチェックインした。そして、荷物を置き、一人でバスに乗って街中に出て行ったのである。今思うとそれは大きな冒険だった。なにしろ、25セント玉の区別さえつかないのに、見よう見真似で路線バスに乗って、ポートランドの町に行ったのだ。

そのとき、不思議な光景を目にした。生まれて初めてみるポートランドの町なのだが、ある街角は、以前見たことがあるということがはっきりと分かったのだ。これは、デェジャブという既視感なのだが、今もその感覚を思い出すことができるほど強烈なものだった。ポートランドに来ることは、夢の中で視ていたような、何か予定の行動であることがそのとき感じられたのだ。

ポートランドで、とりあえずマクドナルドに入ることにした。腹が減っては戦ができないからである。私は、ハンバーガーの注文など問題なくできると思っていた。

列に並んでいる前の人の台詞を注意深く聞き取って、One Coffe, please. などと、本当に単純な英語を話してみた。すると目の前に出てきたのは、一杯のコーラであった。私は、注文を訂正することもできず、自分の英語が全く通じないことに気がついたのだった。

今考えれば、声量が足りないだけで、別に発音が悪かったわけでもないのだが、当時の私は、あらゆる面でパニックになってしまった。これからアメリカで留学生として生活できるのだろうか・・・。

そして、自信を失った私は、大学にある国際学生担当のスタッフに会いに行った。そこで、入寮のための手続きをしようと思ったのである。

日本から手続きした時の手紙には、渡米後すぐに寮に入れると書いてあった。その手紙をもって担当者に会うと、彼女はこう言ったのだ。

「残念ながら、今は寮は満室です。もう二ヶ月もしたら空室が出るから、それまでは、友達のところにでも滞在していてください」

私は、この手紙があるではないかと主張したのだが、彼女は首を振るばかりで、「部屋はありません」と繰り返すのであった。

私は、すごすごと留学初日から泊まっている安モーテルに帰るしか方法はなかった。これが現実である。留学団体などに目もくれず、自分の力でアメリカに来たという自身は、留学初日にすでに打ち砕かれてしまっていたのである。

なぜ、私は単身アメリカにやってきたのか?それには、もう一つのストーリーがあるのだ。

(つづく)

なんちゃってビオトープ





庭を掃除していた父親が、いわゆるトロ箱を放り出していた。もう捨てるというので、ベランダにおいてビオトープを作ることにした。

ビオトープとは要するに小さな池であり、水生植物とめだかなどの魚が自然に共生する空間である。魚にはえさを与えずに、自然が為すがままに成長させる。彼らはプランクトンを食べ、タニシなども入れると、自然に水を浄化するらしい。

ということで、近くのホームセンターで、赤玉土と荒木田土を買ってきた。それをこの箱に敷き詰め、真ん中には素焼きの植木鉢を置く。そして、真ん中に熱帯スイレンを植えてみた。

水を入れると、ゴミが浮いたりしており、まだにごりは取れない。しばらく放置して水が慣れてきたら、めだかを放してみよう。夏場なので水温が高いのだが、それでも大丈夫なのだろうか?まあ、かなり重いのだが、移動もできるので、工夫してみようと思う。

小さな箱庭的自然がどのように変化するのかを見てみたいと思っている。

Tuesday, August 11, 2009

震度⑥

伊豆、静岡の地震がありましたね。最近、E-PISCOというサイトが警告してましたが、その予想はどうやら当たっているようです。

これで、地震が収束するかは不明です。したがって、それなりに準備をする必要があるわけですが、とは言っても、社会生活は毎日進んでしまいます。

そこで、大事なのは、自然のちょっとした変化に関心を持つことです。太陽と月、そして雲。動物の動静など。人間に備わる敏感さこそ、最高の地震予知なのかもしれません。

追記: 以下に詳しい説明がe-piscoから発表されている。

http://www.e-pisco.jp/r_ion/attention/090811.html

手をつないで

オレゴン1985 (小説風連載、その1)

今から、24年前の夏である。ニュースでは、御巣鷹山の日航機墜落のニュースが飛び交っていたあの夏である。1985年の夏は、北海道と同じくらいの緯度であるポートランドでも、暑い日々が続いていた。

私はオレゴン州ポートランド市のアパートの一室にいた。

そこは、家具もほとんどない、殺風景な部屋である。一人で住むには、たしかに広すぎる部屋であったが、日本からはじめての留学地で、余計な家具など手に入れる必要もなく、またその余裕はなかった。元はと言えば、大学の寮に入るつもりであったのに、何かの手違いで、私の名前は入居リストにはなかった。

ポートランドの安アパートに住み、近くのコミュニティカレッジという、短期大学の本科に私は在籍していた。アメリカに留学してから、5ヶ月ほどが経ち、ようやく大学生活にも、アメリカ社会にも慣れてきたところだった。

私の机には、バドワイザーの缶ビールがあった。同じ日本人留学生であったSは、私にアメリカでの生活の仕方をいろいろと教えてくれていた。たとえば、スーパーで若く見られるとビールが買えないから、髭を生やせとか、車で夜の街を案内してくれたりした。彼は中小企業の社長の息子であり、派手なリンカーンを乗り回していた。

アパートから、大学まではバスで通う。アメリカで自家用車がないというのは、日本では靴がないくらい不便なことである。広いアメリカでは、車のない人間は、貧乏学生か、貧困階層出身とみなされている。まあ、私は日本からの留学生であり、当面車がなくても生きて行けるのだが、行動範囲は自ずと制限されていた。

バスから見るアメリカの車窓は、牧歌的である。特にオレゴン州は緑も多く、町並みも上品である。そんな町であるが、まちのあちこちにスプレーで落書きが書かれている。

TRUST IN GOD(神を信頼せよ) とか BELIEVE JESUS(イエスを信ぜよ) というものである。

また、アメリカの紙幣やコインを見てみると、IN GOD WE TRUST と書かれている。

ゴッドという表現が、嫌がおうにも目に入るのが、アメリカの町であった。

私は、漠然と、神を信頼するとか、信じるということがどんなことであるかと考え始めていた。

人間は、目に入る情報から、思索を始めるのである。それほど、高性能なカメラと記憶装置を兼ね備えている人間は、やがて、夢の中でもその思索を続けているに違いない。

私のアメリカ生活の最初の疑問は、「神を信じることとは何ぞや?」というものであったのだ。

(つづく)

Monday, August 10, 2009

田舎暮らしのススメ

このところ客人が多く来てくださり、それぞれ、恵まれた時間となりました。香港、台湾、そして日本の友人が、この田舎町に来てくれるだけで感謝であります。

私はそもそも都会育ちなのですが、田舎の豊かさに感動する毎日です。まず、空気が良い。そして、野菜が安い!

都会の便利さは到底望めませんが、インターネットの発達で、ほとんどのものは宅配可能です。ウインドーショッピングの楽しさはありませんが、まあ、現実的には無駄遣いしなくて良いかもしれない。

日本の田舎は過疎が進み、この町も、老人の姿が圧倒的に多い。これが、日本の現実なのだが、日本のように美しい自然が有る国で、都会だけで過ごしてしまうのは、少々もったいないと思うようになった。

日本のように、医療が発達し、公共サービスが完備し、尚且つ、極端な田舎でなければ、住みやすいという国はそうあるものではない。もちろん、離島や山間部で、医療の手薄なところもあるだろうし、私のはいつもの一般論ではある。

しかし、首都圏、主要経済圏から、50キロぐらい離れた場所は、生活圏としては、恵まれているし、まだまだ、住居環境としては余力があると感じている。

書店に行くと、田舎暮らしの雑誌があるのだが、私も、改めて、この地域の良さを体験して、報告できたらと思っている。

出ない・・出た!!

我が娘が、初めての便秘である。 (生後1ヶ月弱)

ウーンウーーンと、うなっている姿を見ると、なんともかわいそう。

そこで、綿棒で、出口を刺激すると良いと聞き、試してみる。

何度かやってみたが駄目。

そして、先ほど、もう一度トライ。

やったー。

成功です。

見事、出ました。

便秘解決。というか、強制的に解決させました。

これもまた、一つのレッスンでした。

感謝主!

我は陶器師の手中なり

台風の影響で天候が不安定になっています。昨日は比較的大きな地震の揺れがありましたね。不動の大地も、実は膨らんだり縮んだりしているわけで、GPSなどで調べると、この日本も東西南北に微妙に移動しているわけです。

その意味、この世界に不動のものなど一つもないのですね。つまり、すべては流動的なものであると言えます。時も移り行きますし、人の流れ、物の流れ、国家の浮き沈みもまた、その一例に過ぎません。

それでは、この世界に変わらないものがあるのかと考えると、それは法則であったり、原理と呼ばれるものです。そして、それを最も合理的に説明できる、最高の規則とは、創造主なる神と被造物という関係性です。この秩序が不変であり、普遍的なものなのです。聖書はこれを陶器師と陶器の関係に例えています。

Jer 18:1-6
(1) 主からエレミヤにあったみことばは、こうである。
(2) 「立って、陶器師の家に下れ。そこで、あなたに、わたしのことばを聞かせよう。」
(3) 私が陶器師の家に下って行くと、ちょうど、彼はろくろで仕事をしているところだった。
(4) 陶器師は、粘土で制作中の器を自分の手でこわし、再びそれを陶器師自身の気に入ったほかの器に作り替えた。
(5) それから、私に次のような主のことばがあった。
(6) 「イスラエルの家よ。この陶器師のように、わたしがあなたがたにすることができないだろうか。・・主の御告げ。・・見よ。粘土が陶器師の手の中にあるように、イスラエルの家よ、あなたがたも、わたしの手の中にある。


イスラエルは、陶器師である神の手の中にあることを知る必要がありました。それは、国家として最大の祝福であり、またおそるべき主権の中にあるという事実であったのです。

主権在民とは、よく言われていることですが、主権在神とは、ほとんどの人が言わないし、気がついていない真理なのです。つまり、どんな覇権国家であれ、遠い島国の弱小国であれ、その主権は神にあるのです。この神の、あわれみと厳しさの大きさの故に、今に至るまで、国の勃興やら消失やら復興が行なわれて来ました。私たちが学校で学んできた歴史は、その表層に過ぎなかったのです・・・。同時に、このようなフレームワークの中で、私たちは、一つの大きな倒錯から解放され、真理に目覚めなければなりません。それは、自分の人生もまた、神の主権の中にしかないということです。

人生を切り開くのは、自分の価値ある決断によるものに見えますが、それは、すべて神の主権に委ねる時に成功します。陶器師たる神を知らず、またその御心ーー無限の愛という属性ーーを信じることなく、私たちが決断をするのは、神の主権を踏み外すことになります。

聖書の中には、神の側の論理、すなわち主権に身をゆだねよ、というイスラエルの預言者のメッセージが繰り返されています。

人生の岐路に立つということは、自らが何に頼っているのかを知る、実に良い機会なのです。抽象的な表現ですが、人間の人生とは、陶器師の手の中で、作りかえられる運命にあるということは、だれもが否定できない、霊的事実なのです。

あなたの決断は、陶器師なる神のことを覚えたものでしょうか?

私たちは今、陶器師の手中にあると、どこまで信じているでしょうか?

私たちは今、自分という束縛から完全に自由となっているでしょうか?

このようなことを、夏の夜に考えることもまた、一つの導きであると考えています。

Saturday, August 08, 2009

母の語彙

私の母は昭和五年生まれだから、すでに70代後半である。その割には、英語の単語を知っている。しかし、微妙にずれているのが面白い。以下その語彙の例:

ピザ  ヴィザ、あるいはビザ つまり、査証のこと。イタリアだけに通用するものか?
バウンドケーキ パウンドケーキのこと。飛び跳ねるケーキか?

最近の作品は:

アメリカヒロシトリ これは、アメリカシロヒトリ(害虫)のことである。最近庭に大発生したので、この語彙が判明した。アメリカにいるヒロシくんを取ると言う行為である。

他にもたくさんあるのだが、思い出せない。今度発見したらまた書きます。

このブログの統計

以下は、このブログ読者の国別統計です。 皆様の国は入っていますか?

Num   Perc.    Country
424   87.24%   Japan
36     7.41%   Hong Kong
11     2.26%   Malaysia
7      1.44%   United States
4      0.82%   India
2      0.41%   Taiwan
1      0.21%   Canada
1      0.21%   Korea, Republic Of

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Friday, August 07, 2009

ボーン・アゲイン、新しく生まれる


育児も無事1ヶ月が過ぎました。毎日様子が変わる新生児を見ていると、もちろん飽きることはありません。母乳の育児ですので、妻の肉体的負担は大きいのですが、神の恵みで守られ、毎日が進み、あっという間に時間が経ってしまいます。子どもがいると、時間の進行スピードが速くなるような気がしますね。

母乳ー寝るーオムツー母乳ー寝るーオムツ・・・・と、赤ちゃんを中心にして時間が過ぎてゆきます。

しかし、どんなに忙しくとも、新しい命がもたらす祝福は大きなものです。なぜなら、命の萌芽を見ることは、どんな人にも感動を与えるからです。

さて、聖書は、人が神を信じることを「新しく生まれる」と表現しています。

(Joh 3:3) イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」

これは、主イエスが、ユダヤ人の学者ニコデモという人に語った言葉です。そして、この言葉の意味するところは、すべての人間は、霊的な「出生」を経験する必要があるということです。

英語では、この部分を次のように言っています。

Jesus answered him, "Truly, truly, I say to you, unless one is born again he cannot see the kingdom of God."

つまり、born again しない限り、神の王国を見ることはないのです。BORN AGAIN とはどういう体験でしょうか?人は再び生まれるということができるのでしょうか?

人間は苦境に陥ると、かならず「ああ、もう一度人生をやり直せたらなあ」と告白します。そして、それは・・・・・可能なのです!

人生の苦境や危機とは、病気かもしれませんし、愛する者との確執、そして別れがあるかもしれません。また、経済的な危機の数々・・・。

私も50年ほどの人生の中で、それらをすべて体験してきました。しかし、25歳の時に、主イエスを信じることができた私は「新しく生まれて」いました。その結果、今までの人生のすべての危機の中で、自暴自棄になったり、アルコールに走ることもなく、無事通り過ぎることができたのです。

だれでも、新しく生まれ、新しい命で、主の家に住むことができます。また、神の人類への願いは、すべての創られた者が、神の国に帰ってくることなのです。

主イエスの十字架と復活が、自分のためであったことを知るとき、私たちは、新しく生まれることができます。主イエスは、私たちが頼んでもいないのに、十字架に付けられ、殺されたのです。今、多くの人が付けている十字架のネックレスの意味は、あなたが「新しく生まれる」為に、彼は十字架に磔にされ、死刑となったということなのです。十字架は、見栄えの良い、きれいなものではなく、人類の罪を背負って死んだ主イエスの壮絶なバトルの現場を思い起こすための人類に与えられた、普遍的な「記号」なのです。

あなたが十字架を見るときに、どんなに辛い過去があるにしても、「新しく生まれることができる」ということを知っていただきたいのです。これこそが、人生に対する、真の解決です。次の聖書の言葉を、どうか、深く深く心に留めていただきたいと願います。

Joh 3:16
(16) 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

Tuesday, August 04, 2009

Direct Communication

時々海外、つまり日本以外とのメールなどの交信があるのだが、その英文を読むと、実にダイレクトに物を言うことが分かる。もし、直訳すると、日本語にはとうていありえない表現もある。それに反して、日本語のコミュニケーションは、常に相手のことを思い、その立場で物を言おうとしている。これは、時には、大変無駄な言葉の羅列になるのだが、やはり気持ちが良いものだ。

日本が島国で、国境を接することなく、その緊張感の中で暮らしていないことから来る、「凡庸さ」というものが、この国の特質であろう。しかし、この直接的ではないコミュニケーションは、時として誤解を招くものだ。

日本人が直接的に話すのは、110番や119番の電話する時ぐらいだろう。「火事です!」を、「もしかしたら、火が出ているかも知れませんが、いかがお過ごしですか?」とは言わない。

まあ、これは、これまでも語りつくされてきた話題である。

「日本人とは何で、はっきり物を言わないの??」

さて、このような気質の違いを踏まえたうえで、日本でのコミュニケーションの達人になりたいものだ。そして、日本以外の海外人とは、まったく異なるダイレクト・コミュニケーションができるように訓練するべきである。これは、訓練次第で十分できるようになる。

最低限、相手がどの文化の出身かを知らなければ、コミュニケーションは誤解を招くし、誤解を与えることが多いことは知っておこう。

Sunday, August 02, 2009

今日のメッセージのポイントから

2009年8月2日(日)

1・喜びについて
2・神が天地を創造し、人間を創造し終えたとき「とても良かった」と宣言し、7日目の安息に入られた。
3・天地創造そのものは完璧であったし、神の喜びで終わっている。
4・ネヘミヤ8:10、主を喜ぶことは、あなたがたの力である。
5・この世界で、意味あるクリスチャンライフは「喜ぶこと」である。
6・主にある喜び。主を喜ぶこと。主の喜び。これらがクリスチャンの特権的態度である。
7・詩篇5:11  こうして、あなたに身を避ける者がみな喜び、とこしえまでも喜び歌いますように
8・ダビデは、この世界で、神を喜び、賛美することを行なっていた。
9・彼の賛美は全クリスチャンにとっての偉大なモデルである。
10・神を喜びながら、不平不満、他人の悪口、自己卑下はできない。
11・賛美は準備ではなく、礼拝の本体である。
12・賛美において、卓越したライフスタイルを作ろう。聖霊による喜びある生活こそ、勝利である。

(以上)

今日はこんな感じ


おかげさまで、よく眠り、よく育っております。お祈り感謝いたします。

Saturday, August 01, 2009

やっと解決


我が携帯のバッテリー問題がやっと解決した。

いままで、SC708という、薄型携帯であったのだが、バッテリーが全く持たない。昨日は、会話中に電源が切れてしまう事態も発生。これでは、使い物にならない。ということで、今日手にしたのが、730SCというプリペイド携帯である。これを購入した。そして、SIMカードを移籍して使っている。いわば、白ロムを購入したことになる。

730SCは、カメラはあるが、インターネットにも繋がらないし、マイクロSDカードも組み込めない。単純に、音声会話と、メール連絡のみに使用できるモデルである。だから、インターネット経由で、情報を得ることはできないが、私の携帯の使い方は、音声が主であるので、これで十分である。そして、前よりもバッテリーが持てばそれでよい。

この携帯は、プリペイド用に設計されているので、構造が実にシンプルである。その結果、バッテリーの負荷も少なそうだ。これが、この機種の美点である。

AUからソフトバンクに変更してまだ一年で三台目の機種である。1台目は、ストーブの輻射熱で溶かし、二台目は、バッテリーの問題。そして、ようやくこの三台目で何とかなりそうだ。まさしく、「ソフトバンクの思う壺だ」ということで、機材代金に散財してしまった。

ソフトバンクは同士の通話料無料ということだけが、メリットで使用しているのだが、個人的には、他のキャリアのほうが無難であると思う。だが、一旦ソフトバンクにしてしまうと、友人関係などの必要から、変えられないのが、かの会社の戦略でもある。

とりあえず、数時間おきのバッテリー充電のストレスから解放されたことだけを喜ぶことにしよう。




Thursday, July 30, 2009

暑さ対策

現在気温32度。感覚的には37度くらいと、天気サイトには書いてある。つまり、非常に暑いです。同じように暑い地方では、熱中症に気をつけましょう。水、梅干、さとうを混ぜたものが良いと聞いている。詳しくは、こんなところ あるいは、ここである。

家の中でも熱中症になるし、老人や幼児は特に注意が必要だ。

今日はここまで、暑くて頭が回りません!

Wednesday, July 29, 2009

休息中

Tuesday, July 28, 2009

環境問題の解決

今は夏本番であるが、天気はちょっと不安定である。昨日の群馬県、館林の竜巻は大きな被害であったが、その場所は私の家から直線で十数キロのところであった。日本はヒートアイランド化しているので、これからこのような天災も増えるのかもしれない。

ところで、環境問題について少し書いてみようと思ったのだが、マスコミで喧伝されている情報があまりに錯綜しているのでその事実はよく分からないというのが正直なところだ。私も、12年前の国産車に乗っているが、燃費があまりよくない。そこで、最新のハイブリッドにするのが良いのか、それとも、旧車に乗るほうが良いのかを考えてみた。そして、トータルで資源の無駄使いでないやり方を考えてみると、動く限り今の車を運転したほうが、鉄やプラスチックを無駄にしないことがわかる。(燃費は悪いのでガソリンは浪費するが)

ということで、エコカー減税も、単に資源のことを考えれば、逆効果でスクラップされる車が増え、資源を使いまくる新車が売れるという、経済効果の面だけが有効なのだ。まあ、この世は常に昔のものを陳腐化させ、新しいものを売ることで潤っているのだから、エコも当然なマーケティングといえるのだが。

このように、エコとはきわめて自己満足的な事業であり、トータルで本当に資源保護になっているのかは甚だ疑問である。私としては、物というのは、基本的に壊れるまで使って、そして最新のものに取り替えれば、それはそれでよいのだと考えている。つまり、「もったいない」という思想である。

むしろ、私たちが目指すべきは、もっとシンプルなライフスタイルなのだろう。最近の我が家は、新生児がいるおかげで、夜中の3時に起きたり、5時に起きたりしているが、朝早く目覚めれば、それはすばらしいエコである。もう、太陽が昇っており、明るいのだから、様々な仕事ができるのである。そして、本来は夜更かしせず寝てしまえば、電気代もエコできるのだ。

昔、ネパールを旅したことがある。カトマンズの空港で目にしたのは、30数年前の日本の車が現役のタクシーをしている姿だった。ドアは閉まらないので、紐で結ぶものもある。そんな感じである。

そして、町を歩いているうちに夕暮れになった。電気がないので、店の明かりは皆ろうそくであった。薄暗い路地を、地元の人がまるで、何もかも見えるように歩いていたのが印象的だった。これは、インフラのない国の現実であるのだが、このような国では、co2問題が話題になることもなかろう。

今の環境問題は、人間の飽くなき欲の結果生み出された、様々なアンバランスな成果であるのだ。人間が夜遅くまで、煌々とした明かりの下で、エアコンの効いた部屋で、冷蔵庫の冷えた飲み物を飲む・・・。まあ、こんなことが可能になったので、環境問題もその閾値を超えてしまったのだろう。

私の子どもの頃、東京でも冷蔵庫のない家があった。その時は、氷がものを冷やす唯一の存在だった。あれから、45年ほど経って、日本は世界でも最も裕福な(エネルギーを使える)国家となった。そんな文明の中で微細なエコを語るよりも、まず、もっと大きなライフスタイルの変化を考えるべきだろう。

霊的に言うならば、それは、たった一つの神のことばに立ち返るという作業でもある。

この世界は神が創られた。そして、その管理を任された人間が、「欲望」のままに振舞うなら、それは、竜巻となり、大洪水となるのだ。人間の歴史は、神からの管理責任を無視して、自分の王国を作ろうとした、心の権力欲、支配欲、傲慢の現れであった。昨今の日本も、本当に真実な姿を求めずにして、目先の「政策」で終始している。それではいけない。本当の究極の真理を私たちは知らなければならない。そうすれば、環境問題も、年金問題も、様々な問題も解決の道筋が見えてくる。

天地を創造された、神のことばが記録された、世界で唯一の書物は聖書である。これ以上もこれ以下もない。聖書こそ、日本人必読の「書の中の書」であることを知っていただきたいと願っている。

Monday, July 27, 2009

母と娘





絆の始まり。

館林で竜巻


今日は近くの館林で竜巻が発生しました。栃木県は被害はありませんでしたが。このところ大気が不安定で、昨日はこの写真のような珍しい雲が出現していました。何か、不思議な雲の形の次には、異変もあるのでしょうか。

イスラエルの賛美 1

賛美とは何か?私にとって、鍵となる御言葉は、これである。

わが神、わが神。どうして、私をお見捨てになったのですか。遠く離れて私をお救いにならないのですか。私のうめきのことばにも。 わが神。昼、私は呼びます。しかし、あなたはお答えになりません。夜も、私は黙っていられません。 けれども、あなたは聖であられ、イスラエルの賛美を住まいとしておられます。
(Psa 22:1-3)
イエス様が、十字架上で、「エリ、エリ、ラマ、サバクタニ」と叫ばれたのは、詩篇の22編の冒頭部分であった。それほどこの御言葉は重要であることがわかる。

十字架上のイエス様の孤独と痛み(全人類のために体験された)は、究極のものであった。

そして、「わが神、わが神。どうして、私をお見捨てになったのですか。」を上の句とするならば、その下の句は、「けれども、あなたは聖であられ、イスラエルの賛美を住まいとしておられます。」になる。

つまり、十字架の苦しみに対する、本当の信仰告白は、神は聖であり、イスラエルの賛美に住まわれるということである。賛美には、一種類しかない。それは、「イスラエルの賛美」なのだ。賛美は、バッハからヒルソングまで多彩多様であろうが、その本質は「イスラエルの賛美」でなければならないのだ。

(つづく)

今日はこんな感じ


もうすぐ、生後4週間です。

Saturday, July 25, 2009

三種の神器

最近のインターネットの三種の神器は:
  1. ブログ
  2. Facebook
  3. twitter
である。

ブログについては言うまでもなく、このような「公開日記」であり、壁新聞である。これは、だいぶ市民権があり、多くの人が情報発信するようになった。

Facebookは、友人に写真を公開するのに便利なコミュニティである。私はこれで、20年以上前にアメリカでお世話になっていた知人の牧師たちとの交流が復活した。また、香港の友人たちも、私たちの近況を知ることができる。写真は言葉の壁がない。そのあたりが魅力である。

twitterは、一番最新のツールである。これは140文字に制限された「つぶやき」をただ羅列するだけである。また、短い文章で、情報を伝える掲示板である。すでに大手の通信社から、アメリカの大統領まで利用している。

面白いのは、ブログやtwitterも、政治運動に用いられていることだ。日本でも若手の議員はtwitterを利用して、「好感度」を上げようとしている。

さて、私のスタンスは、日本の為に、そして私たちの為に祈ってくださる方々への情報発信業務の合理化のために利用しているのが第一。そして、さらにまだ出会ったこともない人への、メッセージ発信である。

とりあえず、この三つを軸にしばらく展開してみようと思う。他にも便利なツールがあるので、追って紹介することにしよう。

洗濯機により祝福される

どうでも良い日常風景から・・・・

昨晩は洗濯機の修理をした。なぜなら、洗濯中にカラカラと異音がするのだ。それもかなり大きな音である。裏の板をはずして、原因を究明する。それで分かったのは、モーターなどの問題ではなく、洗濯槽の内部に何かの金属が落ちていて、それが、回転部分に触れて音が出ているということだった。

洗濯槽を見てみると、水流を与えるための羽の部品の隙間から、何かの金属部品が落ちたことが分かった。それで、その羽をはずそうとしたのだが、普通のドライバーでは歯が立たない。特殊工具がないと駄目である。出張修理を頼むと、二万円はかかりそう・・・。

しょうがないので、水を張って、脱水をかけてみることにした。もちろん、洗濯物は入れていない。

そして、脱水が終わると・・・・

磨かれた10円玉が出てきた!

これが原因だったか!

それで、もう一度水を入れて、脱水・・・・それが終わると・・・・

今度は100円玉が出てきた!

何か、不思議な気分である。脱水すると、お駄賃にコインがもらえるみたいだ。なんだか、自動販売機というか、洗濯機から「時給」をもらっているみたいである。ここまでで、110円の収入となった。

で、もう一度水を入れると・・・まだ、カラカラと音がする。

そして、脱水をすると・・・・今度は、お駄賃が貰えない!!

夜もだいぶ遅いので、寝ることにする。

今の私にとって、洗濯機は生命線である。なぜなら、毎日たくさん洗濯物が出るので。

さて、今朝もう一度水を入れ、そして脱水・・・・。

やりました!

非常に磨かれた10円玉が出てきたのです!

洗濯機から、「ご苦労さん、これが給料。」と言われた気分です。

合計、120円儲かりました!!!



ということで、洗濯する時は、ポケットの中身を調べておきましょう。