Thursday, June 18, 2009

散歩から想うこと

臨月の妻と共に散歩を多くするようになりました。出産直前の妊婦は、とにかく「歩け、歩け」なのです。階段の上り下りも良いということです。

家の近所はまったくの平坦な土地なので、階段歩行はできないのですが、30分から1時間近く歩きます。もちろん、私も手を繋いで歩きます。

これから生まれてくる子供のことを思いながら、そして、育児で大忙しになることは、間違いないのですが、将来に思いを馳せています。

この何気ない、普通の風景が、奇跡であり幸せであるということは、私は長い間知りませんでした。常に、「向上心」の故に、将来を考えるのみでしたが、実は、今という現実の中に、奇跡と幸せがあるのです。

「向上心」は時として、「欲望」の代替の言葉となっています。

今このときに平安があるなら、それは、神の恵みと奇跡なのです!

人生の修羅場を幾つか経験して分かったことは、この平凡なる日常の風景に、神の奇跡的な介入を見出すことができるということです。

人間は、現状の不満を多く持っています。

「もっとお金があれば・・・」「もっとよい家に住んでいれば・・・」「もっと学歴があれば・・・」「もっと良い夫(妻)がいれば・・・」

このような心の時には、神の平安はありません。しかし、現実は、神は、私たちを、あらゆる恵みで包んでいます。

今、あなたの心臓が拍動しているのも、神の恵みのゆえです。この拍動する力は、神から直接来ているのです。私たちは、単に生物学的に生きているのではなく、神の恵みの下で、真の意味で「他力」によって生きているのです。

ですから、私たちは、自分の頭で次のことを、理解しなければなりません。

この命が、神から出ており、神の中で生きていることを!

神は、ひとりの人からすべての国の人々を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに決められた時代と、その住まいの境界とをお定めになりました。
これは、神を求めさせるためであって、もし探り求めることでもあるなら、神を見いだすこともあるのです。確かに、神は、私たちひとりひとりから遠く離れてはおられません。
私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです。あなたがたのある詩人たちも、『私たちもまたその子孫である。』と言ったとおりです。 (使徒17章)


ここに、私たちの命の真実があるのです。

この命こそ、神の創造による奇跡なのです!

ハレルヤ!(ヤーなる主をほめたたえよ!ヘブル語直訳)